「おかえりなさい」
俺を迎える優しい笑顔に言葉が続かなくなる。言わなければ。あの日家に上がることを許した瞬間から、彼女と煉獄との縁は繋がれたのだ。
「義勇さん?」
心配そうに覗き込んでくる。この顔を曇らせるのか。
明りの灯された台所に踏み込む勇気が出ずに光のない廊下に佇んだ。すぐ傍にいるのに二人の間にはどうしようもなく深く暗い溝が横たわっているように思える。彼女をこちら側に渡らせる。その心の準備ができていないことに今さら気づいた。
「…何でもない」
先に着替えてくる、と言い残して踵を返した。
***
食事の間も気まずい空気が流れた。「煉獄が死んだ」と帰宅直後にさらっと言ってしまえばいい。そう単純に考えていた自分の無計画さを呪ったが、今の心境を隠せるほど器用でもない。もくもくと口を動かす俺を終始気遣う気配を感じたが、顔を上げることができなかった。多分、疲れてぼうっとしているように見えただろう。
一眠りすれば気分が変わる事を期待して床に入る準備をしていると、すらりと障子が開いた。同じように寝間着に着替え、ゆるく髪を結直した出で立ちで部屋の外に座っていた。
「その、今日は」
「ええ。私もそのつもりはありません」
俺の言葉の意味するところを察して恥ずかしそうに目を伏せる。
「実は夢見が悪くて、よく眠れませんでした。お邪魔でなければ一緒に寝ていただけますと助かります」
赤い顔で一所懸命に言われれば無下にはできない。枕を並べて一つの布団に収まった。
こうして眠るためだけに床を共にするのは初めてだった。寝る時間が逆転することも多いので寝室は未だに別な上、事が終わった後も家事の続きをします、と先に起きて出て行く。
妙に緊張して見つめ合ってしまう。狭い布団の中でぶつかる互いの脚の感触がそれを助長した。
「あの…はしたない女だと幻滅しないでください…」
「それはない」
よっぽど泣きそうな顔をさせている。慌てて否定した。手を伸ばして髪を撫でてやると少し笑ったので安心する。やはりずっと笑顔でいてほしい。煉獄のことはとても言えそうにない、と結局思考はそこに落ち着いた。義勇さん、と呼びかけられて視線を上げる。眠れなかったと言う割に血色はよく、目はぱちりとしていた。
「言い辛いことがあれば無理をしないでください。言えるようになった時で構いません」
知人の訃報でもか、と問おうとしたが核心をつきすぎていて言葉にならなかった。逡巡して黙り込んでいると、そんな俺の様子を見て尚も必要ないと言うように、ふるふると首を振る。
「義勇さんが私の事を思って黙っているのでしたら、感謝こそすれ恨むようなことはしません。それに」
ふと遠い目をした。
「人間、どんなに親しい人にも打ち明けていない事は一つや二つあるものです。完璧にわかり合うなんて土台無理な話ですから」
錆兎の顔が過った。最終選別の話はしていなかった。一人で乗り越えるべきだと今も大事に抱えている傷の一つだ。腹を切る云々の件も結局言えていない。
「…貴女にもあるのか」
「ありますよ。多分義勇さんの知らない私が、いーっぱい居ます」
「それは怖いな」
手を握り子どものようにくすくす笑いあった。笑い疲れて、どちらともなく目を閉じる。微睡みの向こうでぽつりと彼女が呟くのが聞こえた。
「一緒に背負えるよう、私も強くなりますね」
声を頼りに腕を伸ばし、温かい体を抱き寄せる。
溺れている者同士が縋りつきあって沈む先は奈落の底か。ニ人だから独りよりも速く沈むのだろうか。
あるいは、貴女となら。