遠くで祭りの笛の音が聞こえる。甲高く浮かれた拍子のそれをかき消すように強い雨が屋根を叩き始めた。少し濡れてしまったな、と玄関先の軒下に駆け込んで自分の身を改める。雨はお気に入りのよそ行きの着物にぽつぽつと小さな濡れ染みを作っていた。
「ただいま戻りました」
家の中はしんと静まりかえっていた。ぼんやりと廊下の先から明かりが漏れているのが見える。聞こえなかったかなと濡れた下足を脱いで歩みを進めた。
角を曲がると廊下に点々と物が落ちていた。お母様は綺麗好きで掃除を欠かさない人なのに何故散らかっているのだろう。不思議に思いながら一つ目の手拭いを拾い上げると、その下に黒い水が広がっていた。何が零れているのか廊下が暗くて目を凝らしてもよくわからない。更に歩みを進めて拾い上げた二つ目はお父様の眼鏡だった。鈍く光る銀色のそれは変な形にひしゃげている。
「引き返すなら今だ」ともう一人の私が叫んでいる。「気づいているのに見ないふり、聞こえないふりをするな」と。
大量の生ものがそのまま放置されているような異常な臭気。早金のように打つ心臓と自分の荒い呼吸の音しか聞こえない耳(でもその向こうには激しい雨の音に混じって何かを裂くような、叩きつけるような変な音がしているのにとっくに気づいていた)。頭が熱くて、深く考えることを拒否する。
震える手で薄明かりの漏れる部屋の障子を開けてしまった。おかえり、と笑う家族の姿を空に描いて。
「お前、いっとう美味そうだな」
振り返った異形のものは私を見て、嬉しそうに笑みの形に顔を歪めた。
*
はっと目を覚ます。びっしょりと寝汗をかいていた。部屋の中は静かで、叫びださなかったことにほっとする。体を起こそうと思ったが震えて力が入らなかった。
(またあの夢…)
堪らず溢れ出てきた涙が筋を作ってこめかみを通り、耳元でぱたぱたと音を立てて布団に落ちた。悲しみと怒りがない混ぜになって胸の中を黒く覆う。
色褪せることのない記憶はあの日のまま、確実に私の中に巣食っているのだと思い知らされる。義勇さんとの穏やかな日々を送る私を戒めるかのように、あの鬼は時折夢の中にひょっこりと姿を現した。
『貴女の作る食事は義勇の血や骨といった義勇そのものを支える土台になる。そうして強くなった義勇は沢山の命を救い、この戦いに終止符を打つだろう』
かつて悲嘆に暮れる私に産屋敷様がかけてくださったお言葉が思い出される。私の新しい人生の礎。生きる意味。だから私は彼の生活を支え、生かすための食事を作り続ける。
(しっかりしなきゃ)
零れる涙を手の甲で拭う。震えは中々止まらなかった。
***
悪いことは重なるものだ。黒焦げの焼き鮭。煮詰まった上に吹きこぼれてしまった味噌汁。水加減を間違えたのか柔らかすぎるお米。よりによって何故今日なのか。台所の作業台に突っ伏していると「どうした」と優しい声がした。そっと頭に触れてくる。
「…何でもないです」
絞り出した声は震えてしまった。だめだ、今日はどうも涙腺が弱い。
不甲斐なく突っ伏したままの私に触れる義勇さんの手を外そうと掴んだ。更に上から手を重ねられて、ぎゅう、と握られる。温かくてごつごつした大きな手。空になってひりついていた胸の中が温かいもので満たされる。家族がいたあの頃と同じ、懐かしい感覚。
「好き」
気持ちの高ぶりがつい口をついて出て、呼吸を止めて見つめあった。義勇さんの目が驚きに見開かれたまま固まっているのに気づいて、まずいこれはもの凄く混乱させている、と血の気が引いて頭が冷える。
「……なものは何ですか?」
「………………鮭大根」
そうですよね。よぉく知ってます。幼稚な誤魔化しに見透かされたのではと焦って手を外した。今度はあっさりと解かれる。
人々の過去も未来も背負い込んで戦う彼に私のことまで背負わせるのか。でもこの手に残る温もりを知ってしまった今、後に引く覚悟が私にはない。迷い続けた結果、義勇さんが私を家に置き続ける理由を聞かずにずいぶんと長い時間が経ってしまった。
「…朝市に行って参ります」
返事を待たずに財布と籠を手に、勝手口から外に飛び出した。変に思っただろうな。せめて上手く笑えてますように。夜中に降った雨が作った水溜りを避けながら走り続ける。
自分と同じ、家族を亡くした境遇に同情しているから。鬼殺隊に入る力がなく復讐を遂げられない私を憐れに思っているから。上司である産屋敷様に私を家に置くよう頼まれたから。稀血の私を守らないと周りに迷惑がかかるから。家のことをやってもらえるから。
女だから。
私が想像した義勇さん側の理由は片手の指では足りない。実際はもっとあるかもしれない。対して私の方はたった一つだ。その一つを知られて拒否されてしまったら。私の生きる意味も場所も、いっぺんにこの世から無くなってしまう。
日が昇ったというのに辺りは薄暗く、遠くで雷が鳴っているのが聞こえた。雨が降る前のじっとりとした空気を振り切るように、私は歯を食いしばって街道を走り続けた。