夢うつつ─朝間
『何故冨岡さんがこの電話に?』
驚きと棘を隠さない声にぼやけていた頭の中が一気にクリアになった。手の中の画面を見ると『しのぶさん』と白い文字が浮かんでいる。『淫行教師』と小さく毒づくのが耳に届いた。心外ながらも何となく後ろめたくなり、隣にある裸の肩に薄掛けを引き上げる。
『出る所に出ていただきます。お世話になっている学び舎の先生を訴えるなんて忍びないですが、大切な同級生を守る為ですもの。仕方がありません。首を長くしてお待ちくださいな、冨岡さん』
「…夫婦なのだから何も問題はない。しかし、要らぬ衆目に晒されない為にも、このまま伏せていてもらえるとありがたい」
言い終わるや否や、向こう側からみしりと不穏な音がする。こうなっては何を言っても裏目に出る気配を感じ、ひたすら黙することに決めた。その間もみしみしめきめきと音は続く。
胡蝶が『忠告したのに』と言うのを聞いて眼前に蘇ったのは過去の婚礼の日のことだった。祝の場から逃げ出した俺達に追いついて早々に、彼女の涙の跡に気づいたのか、きつく睨まれた覚えがある。
『貴方のしつこさを甘く見ていました。鬼への執念を鑑みれば想像に難くなかった筈。まさか真っ向から聖域を侵すなんて…もっと気にかけるべきでした。完全に私の落ち度です』
自分のことを棚に上げてずけずけと続くので流石に頭にきた。俺からすれば胡蝶の執着も相当なものに見える。指摘しようとしたが、こちらの意図を見越したように『私のは老婆心ですよ』とすげなく言い放たれた。咄嗟に返す言葉はない。
『折角のやり直しの機会ですもの、友人として今度こそ幸せになって欲しいと思うのは当然じゃあないですか。もしまた何かあれば、私が冨岡さんをすり潰します。相応の覚悟を』
「…言われなくても、」
幸せにするつもりだ。しかし、俺の返答を待たず、通話は無慈悲にも一方的に遮断された。
空虚に繰り返される電子音に溜め息をついて電話を元の場所に戻すと、とろりと見上げてくる瞳に気がつく。起こしてしまったことを謝罪すると首を振り、くすくすと声を立てて笑い出した。
「胡蝶さ…しのぶさんったら、同級生にとても人気があるのに端から袖にしてしまうんです。義勇さんまで言い負かすなんて…私、ますます好きになってしまいました」
そして「一番親しい人に隠し事が無くなった」と晴れ晴れと話すが、新たな火種の予感に溜め息を重ねた。休み明けに予想される騒動に今から頭が痛くなりそうだ。
(やっと生活が落ち着いたのに周囲が一向に鎮まらない。平和だが、形式と建前に縛られた現代様式は煩わしい上に窮屈だ)
十六歳を迎えたばかりの瑞々しい肌をつつく。はにかむ顔は記憶にあるよりもいくらかあどけない。同じマンションの住人に俺とは兄妹なのかと尋ねられる度に傷ついているのを知っていた。便宜上、否定せずに頷いていることも。
「堂々とさせてやれず、すまない」
やむを得ないとはいえ、相変わらず日陰を歩かせている。せめて真摯に聞こえるように目を逸らさずに言うと、じっと見つめられた後にふわりと柔らかく笑んだ。頭を抱えられ腕の中で愛し子のように髪を撫でられる。これではどちらが年長者なのかわからない。
「こうして一緒に過ごせるなら歳の差なんて取るに足りない問題ですよ」
丸く甘い声に、穏やかな夢の続きにそっと引き込まれていく気がした。
Posted on 2021.03.06
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