「乱れているところはないか」と繰り返し尋ねられる。「やはり長髪は印象が悪いのでは」とも。
「大丈夫ですよ。いつも通り素敵です」
努めて明るく言ったが、不安は拭いきれないようだ。冨岡先生は隣に腰を下ろしたものの、何度も腕を組み直している。
そう気負わずとも、長髪の件は万が一父の逆鱗に触れる事のないよう既に普段の彼の写真を見せてある。「真剣にお付き合いをしている方です」とはっきりと告げたが「そうか」と言うばかりですぐに新聞に戻ってしまったので、心配は杞憂に終わったように思えた。
「無茶をする事もあるが…母さんも私も、お前の勘を信じているよ」
部屋を出る時に聞こえたのは呼びかけに思えたが、振り返ったところで父は顔を上げなかった。
あれは果たしてお店の事だけを指していたのだろうか。今になって引っ掛かるものを感じる。しかし父の心変わりが怖くてすぐに確かめる勇気はとてもない。蟠りはないけれども、事の性質を思えば穏便に済ませたい気持ちに変わりはなかった。
冨岡先生は思案にふける私の横で静かに時間が過ぎるのを待っている。表情が固い。ものすごく緊張しているのだ。
私にしてみればこれまでの道のりを思うと、両家への挨拶など大したハードルではない気がしていた。男の人はまた違うのだろうか。つられて時計を確かめた。家を出るにはまだ大分余裕がある。
一番不安が大きかった物件が無事に決まり、お金の調整もついた。人通りは少なめで建物は古いが、環境は静かで自由に改装していいと許可も頂いた。そのうえ住居と店舗が一体になっているなんて理想通りだ。二つ返事で決めてしまった。
「諸々の申請をするのに二度手間になるので、冨岡先生が構わないのであれば入籍してしまいませんか」
世間一般にはこんなものだろう、とあっさりと結婚を提案した事は些か彼の目論見からは外れていたらしい。
「貴女は本当に…妙なところで思い切りがいい」
俺から申し入れるつもりだった、と少し笑いながら差し出された白銀の指輪は今日も左手の薬指にはめられている。今は仕事に支障が出ないよう、まめに外しているが、つけっぱなしになるのも時間の問題だろう。
順風満帆そのものではないか。何を今更と笑うのは簡単だが、彼の狼狽ぶりを見るとそうも言っていられない。これからは妻としてその不安を軽くするには自分に何ができるのかを、真剣に考えていかなければならないのだ。
とりあえず先人に知恵を賜わろうと母にそっとメッセージで送ってみると『こちらも似たようなものよ』と返ってきた。そんな状態の二人を会わせて大丈夫なのだろうか。胸の中に暗雲が立ち込める。
「父は寡黙で頑固なところもありますが、話のわからない人ではないですし…将棋も好きなので、娘である私よりも仲良くなれるのでは、と思っています」
元気づけたつもりだったが、冨岡先生はひどく曖昧な顔をした。何か言おうとする素振りをするものの、結局は口を閉ざすのを繰り返す。
内に秘めたものの重さを察して手を伸ばした。整えた髪をゆっくりと愛情をこめて撫でる。次第に目を細め、すり寄ってきた。私から触れた時は思いきり甘えていい合図なのだと、いつからか二人の間の不文律となっている。
「…うわの空ですまない。決して気に病んでいる訳では…ただ、俺にも色々と思うところがある。けじめをつける、と言うべきか」
けじめ。ますます耳慣れない響きだ。ここまで懸命にプラトニックを貫き通してきたのだから、尚更。
「浮気ですか」
「は?」
「以前から何か隠している気がしていたのですが、やはりこれだけの美丈夫…私如きで満足する訳がないと常々思っておりました」
うんうんと一人で頷いていると、綺麗な顔にまじりけのない怒りが浮かぶ。それを確認して、ぱっと手を翻し降参の意を示した。虚をつかれぱちぱちと瞬きをするのを見て舌を出す。
「冗談です。朝早くから遅くまで生徒さんの為に働いて、休日を問わず私にも付き合ってくださって…とても浮気をする暇はありませんでした」
「…言って良い事と悪い事がある」
声音はむすっとしていたが、わかりやすく安堵の色が浮かんでいる。纏う空気が先程よりも柔らかくなった。それでも拗ねた素振りをするのが可愛らしくて、くすくすと笑ってしまう。
「心配事も秘密も構いませんが、一人では抱えきれない物は分かちてこそ夫婦なのでは。とりあえず本日のフォローはお任せくださいませ、旦那様」
その呼び名は気が早いだろうか。寄り添った影の先にある婚姻届は二人分の判まで捺されているのに、日付だけは空欄のまま机の上に広げられていた。今日の事の運び次第でいつになるのか決まるだろう。