「帰ってきた!」
表で車が停まる音に椅子から飛び降りた。「義勇のような落ち着いた大人の男になるんじゃなかったのか」と錆兎の声が追いかけてくるけれども構っていられない。
格子戸の向こうで車の中に笑いかけているのは紛れもなくお母さんだ。自分の足で立っている。
「おかえりなさい…」
泣かないと決めていたのに涙が溢れるのを止められなかった。ガラス越しに気づかれたのだろう。戸を開けるとまずは腕を広げるのを見て、迷わずその胸の中に飛び込んだ。抱きとめられた先は温かくお母さんの香りがした。
「ごめんね、心配かけたね…もう大丈夫だから」
その吐息を頬に感じてやっと帰ってきてくれた実感が湧いてくる。お店の床に倒れて汗を浮かべ「近所の人を、呼んで来て」と押し殺した声で俺に訴えた時とは全く様子が違っていた。
「痛くない?平気なの?」
大正の頃とは違う。わかっていたのだけれど、頭の中を繰り返し過るのは暗がりに寂しげに浮かぶ仄白い姿だった。それを吹き飛ばすかのようによく通る声で「平気!」と笑った。お店に来たお客さんに呼びかけるのと同じ、元気な声だ。
「お母さんも─赤ちゃんもどこも悪くないって。ちょっとせっかちだったけれど、こうして無事に産まれてきてくれた」
ほら、と腕の中を見せられて驚いた。布に包まれてなお小さく、静かに眠っていたので気づかなかったのだ。新生児室を覗いた時よりも額や閉じた瞼が丸くなり、あかみがかった肌は健康そうに見えた。
そっと頬をつつくとむにゃむにゃと口を動かす。やがてつぶらな瞳が俺を映した。口の端が上がり微笑んだ気がするのは気のせいだろうか。
「可愛い…」
胸の中がほわほわとした。ミニチュアみたいな爪が生えた指が、差し出した俺の指先を力強くしっかりと握る。寝てばかりでは果たして仲良くなれるのか不安だったのだけれども、これなら上手くやっていけそうだ。
「そろそろ中に入ったらどうだ。疲れただろう」
錆兎が俺の頭の上から手を伸ばしてお母さんの荷物を受け取る。「錆兎くん、いい旦那さんになりそうだね」「照れ臭いからやめてくれ」と笑い合う二人について階段を登ろうとして、背中側から足元が暗くなったのに気づいた。
「…ただいま」
低い声に振り返った瞬間、─本当に一瞬だけ。梅雨が明けたばかりの強い日差しの中に、刀を腰に差した剣士を見た。
「…おかえりなさい、お父さん。髪切ったんだね。赤ちゃんのお世話をするのに邪魔になるから?」
出掛けた時には括っていた後ろ髪は綺麗さっぱり無くなっていた。お父さんは戸を閉めながら、切り揃えたのを確かめるかのように首の後ろに手をやる。
「あれは願掛けのようなものだ」
「がんかけ」
「…無事に産まれてくるよう願いを掛けて切らずにいた。切った髪は奉納してきた。お前の時もそうした」
そうなんだ。それ以上どう続けていいのかわからなくなり、口をつぐんだ。
常に騒がしい俺が黙り込んでしまったので不思議に思ったらしい。いつかの夜のように優しく声をかけられた。
目線を合わせるその姿に再び過去の影が重なる。半分柄の違う、変わった羽織を着た剣士─
(お父さんは…怖くないのだろうか)
小さな命は『義勇』が過去に成し遂げられなかった未来の続きだ。これから先、あの子に「前世では」は通用しない。
ふにゃふにゃでか弱くて、お母さんのお腹の中で大切に育まれた事を思うと、まだ出てこない方が良かったんじゃないだろうか。不安で胸が苦しくなった。
「…俺も願掛け、やってみようかな」
「叶えたい事があるのか」
「うん!お願いは『みんなが元気で楽しく一生を過ごせますように』にする!」
必ずしもそれは当たり前の事柄ではないのを俺は知っている。お父さん、お母さん、錆兎だって─みんな一度は道半ばで俺の前から姿を消してしまった。多分、三度目はないだろう。今度こそそれぞれが天命を全うする為に、俺に何かできる事がないのかをずっと考えていたのだ。
「…立派な願いだが、年寄りになるまで切れない事になる」
「あー、そっかぁ」
腰の曲がったお爺さんがいかにも大変そうに、自分の身長よりもずっと長い白髪を引きずって歩くのが思い浮かんだ。それを伝えるとお父さんは顔をあさっての方に向け、手で口を抑えてくつくつと笑い始める。どうやらツボに入ったらしい。
「…そう壮大にしなくとも、お前が幸せであれば俺達はそれで」
「だからー、家族がそろっている事が俺の」
「お話が盛り上がっているところすみませんが…そろそろお腹が空きませんか」
階段からお母さんがこっちを窺っている。それが合図だったかのようにお父さんと俺の腹の虫が鳴いた。
「俺、焼き肉がいいなあ。錆兎も来ているんだし、みんなでわいわいしたい」
「昨日のカレーの残りがある」
「それならお昼は義勇さん達の特製カレーにして、夜に焼き肉をしましょうか」
「義勇達が作ったカレーか…不安しかないんだが」
「「失礼な」」
火が強すぎたのか、ほんのちょっと鍋の底が焦げてしまっただけだ。「隠し味にコーヒーを入れる場合もあるくらいだ。できるだけ取り除けば大丈夫だろう」とお父さんも言っていた。保存にも気をつけたし。なのに錆兎は「そういう問題じゃない」とぶつぶつ言っている。
みんなに続いて最後の一段に足をかけた刹那、誰かに呼ばれた。声のした階下は無人の筈で、どれだけ待っても沈黙があるだけだ。風も無いのに湿った熱気が顔に吹きつける。窓が開いているのだろうか。
戻った方がいいような気がしたのは懐かしさに似た感情がこみ上げたからだ。あの寂しげな呼びかけを、俺は確かに知っている─
「どうした」
お母さんから赤ちゃんを受け取ったお父さんが俺を迎えに来た。その向こうにはお昼ご飯の準備をするお母さんと錆兎の姿がある。
興味を引かれるのを振り切って、急いで駆け上がり腰にしがみついた。頭の後ろを大きな手が撫でてくれる。
「お父さん…幸せ?」
「ああ─この上なく、幸せだ」
俺の体を受けとめながら、お父さんは柔らかく笑んでいた。もう過去の影に怯える必要はないのだ。重苦しい悲しみは時の流れと共に消え去ってしまった。道はこの先も、はっきりと長く続いている。
二度とこの笑みが消えませんように─さようなら、孤独な剣士。そして、おかえり。ありがとう。