弁当のやり取りだけでは埒が明かないと想いの丈を告げたが、ハプニングも相まって想定より距離を詰めすぎた。キスやセックスなどの直接的な情交ではなく、いつでも手の届く距離に居て、今ある当たり前の幸せを支え守りたい。望みはそれだけだと思っていたのに。
昨晩向かい合ったのはまるっきり剥き出しの欲望を抱えた一人の男と女だった。
(…いよいよ嫌われたかもしれない)
ホテルを出てからお互い一言も発していない。海岸と平行に走る舗装された道路ではなくわざわざ砂浜に降り、打ち寄せる白く泡立った波に足を浸しながら先を行く背中を見つめた。
彼女の母親と対峙してからずっと考えていた事がある。今生が錆兎の言う「奪われた人生のやり直し」にあたるのならば、何故彼女の方には記憶が無いのか。俺の業はそれ程に深いのではなかろうか。
何度も家に一人残し、終いには散々苦労させた。「貴方を恨んでいます」と冷たく突き放されてもおかしくない別れ方を選んだのは、他でもない俺自身だ。貴女の口から終わりを告げられるのが怖かった─そんな利己的な理由で背を向けた罰なのではないか。
暗い思考は歩みを鈍らせ、やがて止まった。俺がその場に取り残されても波を散らしながら彼女は歩き続ける。そして指に引っ掛けた履物がすり抜け砂の上に落ちたところで、拾うついでに俺がついて来ていない事に気がついた。
「冨岡先生?」
なお俺の名前を呼んでくれるのか。何故。
振り返った彼女はこちらに歩みを戻したが、お互いが手を伸ばしても届かないくらいの位置で止まった。再び同じ時代に生まれ同じ場所に立っている筈なのに。その実、生死を分かちた時よりもずっと遠い。
いっそ全てをぶち撒けてしまおうか。理解はしてもらえるわからないが、少なくとも俺がこだわる理由を伝える事はできる。睡眠不足で判断の鈍った暗い思考が俺の弱い部分を揺り動かした。
「本当に相手を想うのなら止めておけ。お前が楽になりたいだけだ」
錆兎にも宇髄にも同じ事を言われた。「過去にこだわり過ぎるな」とも。
「性格や物の捉え方が似ていても、生きる時代も環境も違う。鬼と対峙した時のような鮮烈な感情や体験を共有する機会は現代ではそう無い…関係を作り直すには相応の時間がかかるだろう。焦りは禁物だぞ、義勇」
「詫びだ何だと冨岡自身が背負い込むのは勝手だが、前向きに今を生きてる相手にとっちゃあ何の意味もねぇ。どんと背中を押してやれよ。肉親を目の前で殺されたなんて悲惨な記憶、寧ろ無くて良かったじゃねえか」
宇髄の言うとおり、彼女が鬼との因果から完全に解き放たれたのを喜ぶべきなのだろう。…でも、それでも─あのささやかな日々が完全に無かったことになってしまうのならば─
「…怒られてしまうかもしれませんが、初めてお会いした時に迷子のような顔をした人だと思いました。親に置いていかれてしまった小さな子どものような…今も同じ表情をされていらっしゃるように見えます」
何気ないようで真正面から踏み込まれ、芯から震えた。相変わらず察しがいい。
和装なのでより強く大正の頃と重なった。浴衣は一晩では乾ききらず湿っていたが「帰るのに支障はない」と帯を締め直している。あの頃と違う点は髪を解き潮風に無造作に遊ばせているくらいだ。
「冨岡先生が私に…私の知らない何かを求めているのならばそれには応えられません。昨夜お話した通り、今は自分の事に精一杯でとても余裕がありません…」
水平線の向こうに視線を送りながら言葉を続ける。その先に描く未来に俺の姿はないのだ。はっきりと諭されて朝日に反射して眩しいはずの海面が暗くなった。先刻まで気にならなかった筈の生臭さが急に鼻を刺す。とても聞いていられない。一連の幕引きは前世と同じく、せめて自分で。その方が傷は最小限で済む。皮肉にも記憶に救われるのだ。己を嘲笑いたくなった。
「…これ以上迷惑に思われるのは」
「め、迷惑では………全然迷惑とは思えなくて…だから困っていたのです」
─風向きが変わるのがわかった。彼女はもう遠い水平線を見ていない。
寄せる幸福の気配が俄に信じ難くゆるゆると手を伸ばしたが、届くより早く目の前に現身があった。歩み寄ってくれたのだと認識するのと同時に腕が動く。ぴくんと体が揺れたのが伝わってきた。手のひらで直に触れた頬は温かかった。
「、…嫌われたのかと」
「嫌いになれたらどんなに楽か─私、結構強欲みたいです…度量は小さいのに」
瞳に俺を写しながら「貴方といると知らない私が顔をみせる」と半ば独り言のように呟いた。
磯の香りに名前の知らない花の匂いが混じる─この距離をどれだけ焦がれたか。辛い孤独の中に現れた俺の幸い。もう二度と離してなるものか。
「俺を受け入れるくらいの余裕ができるまで、いくらでも待つ。時間は気にしなくていい─たとえ百年かかろうと構わない」
「ひゃ、百年は流石に…私の方が待ちきれなくなってしまいます」
「…それは俺の事を指すのか、将来の事を指すのか」
先刻までの潔さはどこへやら。はぐらかす素振りに肩を掴んで顔を覗き込んだ。目が泳ぐが、早朝の浜辺に人気はなく波打ち際では隠れる場所もない。ついに覚悟を決めたように俺を見据えた。清廉さをたたえた強い眼差しは、あの頃と少しも変わらない。
「両方…です」