由来も俺との日々に憶えがなくとも、あのつましい花を喜ぶのであれば俺は何度でも─
「お父さん、そんな事を言っていたの?」
お母さんが入院してからずっと空っぽのお店のカウンターで、隣に座った錆兎が「ああ」と頷く。俺の知らない二人の話にどきどきしながら、もう一度お祖母ちゃんに借りたアルバムを開いた。
成人式、夏祭り、俺のお宮参り─着物や浴衣になる時にお母さんは必ずあの椿の髪飾りを付けていた。どこをどう辿って百年も前の髪飾りがお母さんの手に渡ったのかはよくわからない。そもそも同じものなのだろうか。不思議な巡り合わせもあるものだと二人で首を傾げた。
「…お父さんはきっと楽勝だったんでしょ?お母さんは前と変わらずに髪飾りを大事にしていた訳だし」
共通点が多ければそれだけ希望が見えてくる。子どもの俺にだってわかる事だ。だが予想に反して錆兎は苦笑いをしながら「いや」と首を横に振った。
「義勇の粘り勝ちだな、あれは」
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***
「─ごめんなさい。お付き合いをする事はできません」
予め用意していた答えとはいえ口にすると胸が痛んだ。
「…好きな男が」
「違います」
「将来の為か」
「…そうです。まだまだやらなければならない事が沢山あって…全て私が未熟なせいです」
冨岡先生のせいではありません。震える声は花火を打ち上げる砲音にかき消けされ、彼に届いたかどうかは定かではなかった。
視線をそらした先には、若いカップルが極彩色に照らされながら笑顔で空を見上げている。きっと冨岡先生もこの景色の一部となる事を期待して私を誘ったのだろう。そう思うといたたまれなくなった。
場に合わせた浴衣と結い上げた髪は母の強い勧めを言い訳にしたが、結局断りきれずにめかしこんだのは私の迷いの顕れだ。それでも告白されたらはっきりと辞退しようと決意していたのに。目の前の冨岡先生は否応なしに胸を打つ。
毎日空になった弁当箱を受け取り、真摯に綴られた感想に一喜一憂し、明日の献立はどうしようと常にその姿を頭の隅に描いていた。食べる人の生活を想像し盛りたて、足りないものを補う。私の中で「食」とはそういうものだ。思考にふける時間は日に日に長くなり、やがて少ない自由時間をも切迫する。
冨岡先生の事を考えると、胸をくすぐるような甘い感覚も心が重い理由の一つだ。本を広げ机に向かうのは十代の頃に比べれば体力も気力も続かない。働きながらでは尚更だった。一刻も早く遅れを取り戻さなければならないのに、何を浮かれているのか─
「…利用すればいい」
冨岡先生は場の空気を乱すまいとするかのように、そっと言った。
「そう張り詰めていては限界を感じる事もあるだろう。もう十二分に支えてもらった…今度は俺が返す番だ。貴女の行く道の邪魔にならないよう努力する─だから」
この縁を断ち切らないで欲しい。
静かな嘆願の中に確固たる意志を感じた。その態度と物言いには余裕すらあり、歳は変わらないのにずっと高いところから私を見ている。こうして向き合ってとり交わすシグナルは言葉以上に雄弁な事に気がつく。黒々と深い瞳は私の浅ましい迷いなど、とっくにお見通しなのだろう。
それでもなお求めてくれるのか。何故。
「何故そんなに、私の事を」
思わず詰め寄ろうとするのを阻むかのように、突如白い光が瞬いた。花火の一種かと思ったが、続けて凄まじい轟音が辺りに響く。
後に落ちてきた雨粒は激しい風にまかれて細かく散り、たちまち顔に吹きつけた。「夕立だ」と誰かが叫ぶのが聞こえたが、とっくに日は暮れているので正しくはないだろう。急な嵐に集まった人々は海辺をほうぼうに駆け出す。
私達もそれに倣ったが、車は花火大会の混雑を避ける為に遠く離れた駐車場にあった。履き慣れない下駄と浴衣は濡れそぼって重くなり急ぐ足をもつれさせる。
冨岡先生は私を急かす事はせず、上着を脱ぐと雨避けにすっぽりと頭から掛けてくれた。容赦のない風雨はあっという間に彼の衣服の色を変えていく。
狭くなった視界で転ばないようにと手をとられ、振り払うべきか握り返すべきか、結局どちらを選ぶ事もできないうちに暗い港の畔にコンビニの明かりを見つけた。
「すっかり降られたな…」
襟ぐりに指を引っ掛け、肌に張り付くシャツを不快そうに剥がしながら冨岡先生は暗い空を見上げる。つられて顔を向けるが、店のネオンに目が眩み果たして雨雲は流れているのか判断はつかない。時折白い稲光が横切り、少なくともすぐにはおさまりそうもない事はわかった。
軒下も狭い店内も同じように避難してきた人でいっぱいだ。アクシデントを笑い飛ばし陽気に大声を上げる一行とぶつかりそうになり、繋いだままの手を引かれて肩と肩がくっつく。
そうして初めて自分が寒さに震えているのに気づいた。強くなる雨脚とともに気温は下がり、濡れた浴衣に当たる冷風がみるみる体の熱を奪っていく。
「休む所を探そう」
「これ以上お手を煩わせるのは、」
強く首を振って拒否をした。借りた上着をつき返そうとするが、逆に掛け直され片腕に抱き込まれる。
「透けている」
素早く耳元で囁かれた。それでは一人で電車に乗って帰る事もままならない。髪も化粧もぼろぼろに乱れているだろうし、足の指は濡れた鼻緒に擦り剥けてじくじくと痛んだ。あまりの惨めさに涙が湧き上がる。
屹然と彼の申し出を断り潔く去る自分の姿ばかり描いていた。一度も振り返らなければそれで終わりだと思っていた。こんな事態は全く予想だにしておらず、あと私に出来る事はといえば泣く事くらいだ。
「泣くな、…泣かないで欲しい。どうしたらいいか、わからなくなる」
強情を張るのもここが関の山のように思えた。顔を覆うと途端に腕の拘束は緩み、留まるのも寄りかかるのも私の意志に委ねられる。
尊重しようとしてくれている。その優しさが今は恨めしかった。