夜白の燈火

新門紅丸

家業の薬屋を継いだ浅草生まれの幼馴染と、火消しの頭を継いだ新門紅丸の両片思い話。

※火事の描写があります

目次

Novels 一覧

月下

火消しの棟梁である新門火鉢は、呼び出された俺が腰を下ろす前からもう怒っており、不機嫌を隠そうとしなかった。絶えず煙管を吹かし、鷹に似た鋭いまなざしが粗探しをするかのようにぎろぎろと俺の頭のてっぺんから爪先を巡る。

親代わりであり普段は気安い相手だが「義理は通せ」と紺炉に言いつけられていたので、畳の上に膝を折って座り姿勢を正した。呼び出しに応じたからには決して気後れをするような謂れはない。それを示そうと眉間に力を入れる。

こちらを眺めていたジジィはようやっと視線を外すと、ため息のように長く濃い煙を吐き出し口を開いた。

「紅丸。お前はまた頼まれもしねェのに薬屋の嬢ちゃんの喧嘩に割って入ったのか」

叱られる理由は大体予想がついていたので(やっぱりその件か)と特に驚きはしなかった。

幼馴染は稼業の薬屋を継ぐべく十三歳になる年から浅草の外にある東京皇国の学校に通っている。しかし生徒の中には原国主義を貫く浅草の出とわかるといやがらせにかかる連中がいて、不愉快な目にあっているらしいと知ったのはつい最近のことだ。

「あれは喧嘩じゃねェ、弱い者いじめだ。あいつがやり返さねェのをいいことに、相手はどんどん嵩にきて威張り散らしやがる。皇国や聖陽教が何だってんだ。ムカついたからぶっ飛ばしたんだよ」
「この大馬鹿野郎が!」

いきなり拳が飛んできて後退る暇もなかった。ジジィは軽く小突いたつもりだろうが、細く頼りない子どもの体は鞠のように畳の上を跳ねて転がり、障子戸にぶつかってやっと止まる。さすがに頭にきて不当を訴えようと口を開きかけたが、それよりも早く破鐘の怒声が落ちてきた。

「それのどこにお前が暴れる道理がある!相手の親が大騒ぎしてガキの領分はとうに超えちまった。矢面に立たされんのは薬屋の爺さんなんだよ」
「あ…?」

相変わらず言葉足らずで要領を得ない説教だが、思いのほか大ごとになっているのは理解できた。

(俺を差し出せばコトはまだ簡単に収まるだろうに、あの気骨のある爺さんがそれを許す筈がねェ…)
「半端モンが首突っ込みやがって…」
「紅ちゃんを叱らないでください!」
「退がってろ、嬢ちゃん。紅丸はお前さんのためじゃなく『皇国と聖陽教にムカついた』っつう自分の勝手でやらかしたんだ。庇う筋合いはねェよ」
「退がりません。私も誰に頼まれるでもなく自分の勝手で喧嘩をしませんでした。浅草の自警団の大将として『外の者に舐められるような真似をするな』と、まずは終始逃げ腰であった私を諌めるべきではございませんでしょうか」
「ほォ。言うじゃねェか」

ジジィは顎に手をやり、大人びた口調で楯つく娘に目を細めた。その瞳は鋭く光り、ヒグマのような巨体にはいつになく凄みが漲っている。

対峙する娘は気丈に見返すも、次第に固く握りしめた小さな拳が震え始めた。代わってやりたいが睨み合う二人の間には張りつめた沈黙が下りている。この場は目を逸らした方が負けなのだと、口に上らせてもいないのに通じているのがわかった。

「…もういい。俺が出る」
「うん…」

やがて色白の頬が透き通る程に色を失っているのに気がつき、ついに見かねて腕を引いた。力無くよろける体を背中に隠して進み出ると、急にジジィの纏う空気が緩む。にやっと不敵に笑いさえするのを二人でぽかんとして見上げた。

「あ?」
「紅丸、嬢ちゃんの心意気に免じて今日のところは勘弁してやる。俺は爺さんの加勢に行ってくらァ」
「お、おゥ…」

そして羽織を手にとると、揚々と下駄を鳴らして本当に出掛けてしまった。

てっきり「他人の喧嘩にしゃしゃり出てくんな」と、いつものように蹴り飛ばされると思っていたのに。とんだ肩透かしだ。

下駄の音が表通りの彼方に消えて、ようやっと心身の緊張が解けた。ただ座り込むのでは飽き足らず、並んで畳に寝転ぶ。

「こ、怖かったね…」
「勝ち目もねェくせに啖呵を切りやがって。ジジィが本気で喧嘩を買ったらどうするつもりだったんだよ」
「その時はまた紅ちゃんが助けてくれるって信じてたもの」
「…現金なやつ」

嵐が去り、蜂蜜色の陽射しが降り注ぐ室内はすっかり日常を取り戻していた。全員が出払っているのか詰所の中は静かで、そう遠くはないところで赤ん坊の泣き声が聞こえる。

天井の木目を眺めながら事の顛末を振り返るが、何をどうしたら正しい行いとされるのか皆目見当がつかなかった。ただ大人に多大な迷惑をかける結果となったこの選択も、決して大きく間違ってはいないのだと隣の温もりが証を立ててくれた気がしていた。

「きっともういじめられないよ。私と揉めるとおっかない棟梁と紅ちゃんが出てくるって知れたから、姿を見るだけで震え上がって逃げ出すと思う。助けに来てくれてありがとう、紅ちゃん」

寝返りをうってこちらを向くと、細い髪がさらさらと眩しい額を滑り落ちる。長閑な陽だまりに浮かぶ屈託のない笑顔が胸に残った。

*

はっとして目を開けると冷たく冴えた夜気が風に乗って頬を撫でた。酒瓶と空の盃が転がった縁台は俺一人きりだった。

天上の月は西側に傾いており、既に夜半をまわっているらしい。よく晴れた静かな星月夜に月見酒と洒落込んだが、いつの間にか眠ってしまったことに気がついた。

(何で今、ガキの頃の夢なんだよ…)

夢の名残が後を引き、懐かしい光景が胸の内に溢れ返っている。慣れ親しんだ詰所のあちこちに、まだ何の翳りも持たずに駆け回る無邪気な自分達と、強面の先代の影が横切っては消えていった。

泣きたいとまでは思わないがえらく物寂しい。(これが感傷ってやつか)と光彩の滲んだ月を見上げて考える。

「お目覚めになられたのですね。掛けるものを持って行くところでした。今宵の縁台は冷えます。お酒はほどほどにしてお部屋でお休みください」

ふと気分を変えようと思い立って酒の肴を漁りに台所へと足を向け、廊の角まで来た時だった。曲がる直前で行き会った小さな人影が驚いたように後退り、相手が俺であることを認めるとすぐに抱えていた薄掛けを差し出す。仄かに届く月明かりを頼りに闇をすかすと、その人物は薬師の娘だった。

間近で顔を見るのは入隊を誘った時以来だ。やくざ者の道に引き込んでしまった後ろめたさから同席の場を避けていた。

火消しの頭として見栄を張り「覚悟を持てるか」と迫ったくせに、他の者であれば真っ当な道を示せただろうとくよくよする自分がいる─結局俺はぶっ壊すことにしか能がない。

(今宵は揺らぎが特に強ェな。深酒のせいか、それとも夢に懐古の情を呼び起こされたせいか…)
「若?あの、」
「…その水臭ェ口調と態度はやめろと前に言った筈だ」

俺がいつまでも黙り込んでいるのを、怪訝そうに尋ねるのを遮った。娘は一瞬むっとした表情を上らせると薄掛けを胸に抱き、口早に続ける。

「正式に隊員となった今、若は私の上官です。頭と新参者が親しげにしては他の者に示しがつきません」
「聞こえねェな」
「お戯れは止してください。いくら若がお望みになってもどうしようもないことはあるのです。ここで過ごす以上、私にも体裁というものがございます。そのくらいおわかりでしょう」

まるで子どもの我儘を窘める母親のようだ。目上の者にも毅然とし、諭し聞かせる様は先刻の夢にあった先代に楯ついた時を思い起こさせた。普段はおっとりと構えているのに流石は浅草の生まれである。

「…火ィ出してみろ」
「いきなり何を…」
「ガキの頃とは違う。今や一介の隊員であるお前の一大事に、頭である俺が駆けつけてやる義理はねェってのがそっちの理屈だろ。だったら自分の身は自分で守ってみろよ。紺炉が毎日稽古つけてんだ、その能力が使いモンになったか見てやる」

最早、意地の張り合いだと思った。屁理屈だとわかってはいたが、引くに引けぬ心情だった。

「………義理は無いって、何それ…」

声の震えに、はっと我に返る。真ん丸の両目にみるみる涙が膨れ上がり、つ、と片方が流れた。

言い過ぎたと気がついた頃にはもう遅かった。暗がりで煌めく光の粒がいくつも零れ落ちる。それを見て冷や水をぶっかけられたかのように血の気が引いた。

「っ…紅ちゃんの馬鹿。口調とか態度とか上辺ばっかりこだわって、私がどんな思いで役目に徹しようとしているのか考えようともしない。私が育ってきた今までは紅ちゃん抜きでは成り立たないのに、どうしてそれが無かったことになるの?紅ちゃんの幼なじみであることは私に残った数少ない宝物なのに…」 

傷つけて泣かせてしまった衝撃は殊の外大きく、弾かれたように踵を返し、詰所の奥へと走り去る後を追うことはできなかった。

しばらくその場に身動ぎもせず立ちすくむが、闇の中の微かな気配に気づかずにいられる程、呆けてはいない。娘が去った方角を見つめたまま背後に向かって呼びかけた。

「…立ち聞きたァ趣味が悪ィ」
「聞かれたくなきゃ夜更けに言い合いなんかすんな。しかも八つ当たりでお嬢を泣かすとは穏やかじゃねェ」
「どうせ俺は引き際を知らねェガキだよ」

庭から縁台に上がった紺炉は、俺が転がした盃と娘が放り出した薄掛けを拾い、手の中で見比べる。そしてやれやれと言わんばかりに首を横に振った。

「なあ、紅。お前さんへの態度の使い分けは俺もしていることだ。お嬢はちょっとばかし極端だが、隊の在り方を慮っての志も俺と同じものだろう。それなのにどうしてお嬢だと許せねェのか、一度じっくり考えてみるんだな」
(…じっくり考えるまでもねェ。認めるのが癪だっただけだ)

再び一人になり、縁台に足を組んで座り直す。新しい酒を盃になみなみと注ぎ、揺らぐ水面に浮かぶ月ごと一気に飲み干した。自分の吐いた息が夜目にも白く、ゆっくりと立ち上っていく。ようやっと自由に呼吸ができる気がした。

(何で許せねェのかって、それは─惚れてるからに決まってんだろうが)

Give a Like!

「いいね!」のひとこと代わりに、ぽちっとどうぞ!

    ※匿名でボタンが押されたことがサイト管理者に送信されるシンプルなツールです。

    ※コメント機能はありません。