夜白の燈火

新門紅丸

家業の薬屋を継いだ浅草生まれの幼馴染と、火消しの頭を継いだ新門紅丸の両片思い話。

※火事の描写があります

目次

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黄昏

手を繋いで詰所の入口に現れた私達を、先に戻っていた紺炉さんは呆れたようなほっとしたような複雑な面持ちで迎えた。その表情から何を察したのか紅ちゃんは振り払うように手を離す。ついでに私から羽織を取り返し、着直しながら口を開いた。

「霧ではぐれそうだったから掴んでいただけだ」
「誰も何も言ってませんぜ、若」
「…あとは紺炉に世話してもらえ。俺は現場に戻る」
「うん。ありがとう…」

そして紅ちゃんは振り向きもせずに暖簾をくぐって戸口を出て行き、再び霧の中へと消えていった。後ろ髪を引かれる思いでしばらく見守っていたが、白い帳が開かれることはついぞなかった。

「お嬢、むさ苦しい所ですが雨風は凌げます。どうぞお寛ぎなすってくだせェ」

声をかけられて我に返る。振り向くと恭しく頭を下げて手を差し出し、履き物を脱いで土間から上がるよう促すのが見えた。主に治療や薬の補充に当たっていたのは私ではなく亡き祖父なのに、紺炉さんは慇懃な態度を崩さない。

「…ありがとうございます。家が直るまでお世話になります」

未熟な自分がそのような扱いを受けるのは正当ではない気がしたが、今は黙っていることにした。ここまで火事の衝撃から立ち直る間もなく、あちこちが煤で黒ずみ、朝露に着物は湿っている。冷えて汚れた体は一刻も早い休息を欲していた。

(少し休ませてもらってからこの先のことを考えよう。家財も商売道具もみんな焼けてしまった。仕入れ先と患者さんに知らせて、それから─)
「お嬢、袖に火が」
「え?」

紺炉さんが指した先を見やると、自分の腕から音もなく発火していた。たちどころに炎を吹き出し、ごうごうと不気味な唸りを上げ始める。息詰まる程の熱風が頬を打った。

「何これ…」

赤と金の光の中で自分の手指は暗く沈んで映った。炭化し、ぼろぼろに崩れた祖父の最期が思い出され、ぞっとする。

「は、早く消さないと」
「お嬢!」

目の当たりにした脅威に動転し、紺炉さんの脇をすり抜け、水を求めて詰所の奥へと走り出す。自分の身に何が起きたのか皆目見当がつかなかったが、完全に飲み込まれる前に『それ』から逃げなくてはならないと必死だった。

異常に気がついた隊員達が部屋の戸を開けて廊下を覗き込み、次々に「あっ」と声を上げた。その目には火達磨が疾走する光景が映ったのだろう。顔の前に広がる炎越しに消化器の群れが色を成して迫ってくるのが見えた。

電球の鈍い橙色が明滅し、床や壁には追手の影が幾重にも連なってゆらゆらと躍っている。まるで果てのない悪夢の様相だ。

入り組んだ廊下の角をいくつか曲がり、突き当りまで走ったが、ついに取り巻かれたそこは水場ではなかった。壁を背に半円状に囲まれて消化器の噴気孔を向けられ、咄嗟に袖で顔を庇う。

「泣いている女一人を集団で追い回すたァ、無粋が過ぎんだろ」

ふいによく響き渡る声が場の緊張を支配し、輪の向こうで誰かが殴られる音がした。思わず閉じた目をこわごわ開いてみると、周囲は既に水を打ったように静まり返っている。

当然のように紺炉さんをつき従えて人の波に割って入り、悠々と空いた道を歩む紅ちゃんはまさしく王の威容を放っていた。異形として対峙してみて、初めて強大な力の気配を感じる。浅草の人達が彼の何を畏れ、尊ぶのかをようやっと理解した。その力の前ではちっぽけな私など無に等しい─魂を抜かれたようにその場に立ち尽くす。

「…俺が誰で、自分が誰なのかわかるか?」

紅ちゃんは腕を組み、暫く観察するように私を見下ろしていたが、やがて口を開いた。答えようにも混乱が喉につかえて言葉が出ず、こくこくと繰り返し頷いて返事の代わりにする。

(泣いているって、どうしてわかったのだろう…)

涙は零れ落ちる前に蒸発していた。今や体から噴き出す炎の激流は体表を覆い尽くし、感情はおろか表情さえも判然としない筈だ。紅ちゃんに限って火が出る前と変わらず意思疎通が出来るのは奇跡に思えた。

(私はまだ人なのだろうか。この世界から追い出されずに済むのだろうか…)
「何も燃えちゃいねェよ。髪も肌も、着ている物さえ無事だ。無意識に制御はできている。今度は自分の意思で抑え込んでみろ」

それが可能であればとっくにやっている。反論したかったが有無を言わせない口調だった。しかし荒事に縁がなく、のほほんと生きてきた町娘には荷が重い話だ。

紅ちゃんがよく手の型を構えているのを思い出し、見様見真似で胸の前で組んでみるものの要領を得ない。おろおろしていると、溜め息と共に焦れたように腕が伸びてきた。脇を通った両手は背中へと回り、唐突に抱き寄せられる。

「俺がこうしてお前の形を掴まえていてやる。外にはみ出している分を閉じりゃあいい」
(形って…急に言われても)

加減を知らないのか肩や二の腕を痛いくらいに締め上げられた。昨夜の火事場で抱きしめられた時と同じだ。その無骨さに戸惑うも、ひどく安心を覚えた。

やがて背中に手を回し返してしがみつくと、ぴくんと微かに反応し、庇うようにより強く抱きこまれた。頬や額に当たるごわついた羽織の下に、固く隆起した筋骨がある。燃えている私よりも焼けつくような体熱と、落ち着いた息づかい。全て私と異なっているからこそ実像が際立つ。こうして他人と触れ合うことで自分がどんな形をしているのかが明らかになるだなんて思ってもみなかった─

「消えた…」

次に頭を上げた時には視界に赤と金以外の色が戻っていた。炎は跡形もなく引き、見慣れた手指は傷ひとつなく滑らかだ。まるで始めから何事もなかったかのようだった。

「今のは人体発火現象じゃねェよ。原因不明の出火でもねェ…第三世代の発火能力。お前自身が出した炎だ」

鎮火と無事を喜ぶのもつかの間、体を離して向き合った紅ちゃんはあっさりと衝撃の事実を言い放った。その言葉は片付けを始めた周囲の隊員の耳にも届いている筈だが、特段関心を引く様子はない。喧騒の中、一人あっけにとられ「冗談でしょ」と笑い出しそうになる。

「二十歳を超えて発現するなんて聞いたことない」
「珍しいがゼロじゃねェ。恐らく昨日の火事を見たのがきっかけだろうな」
「そんな…」

信じたくないという思いから唇を噛んでその顔を見つめ返す。しかし、しかめっ面の紅ちゃんが言うことに疑念を挟む余地はないと長年のつき合いから知っていた。議論を続ける余力は残されておらず、へなへなとその場に座り込む。幼なじみとの雑談に取り紛らわせるにはあまりにも重い状況に思えた。

(家族と家を失って、仕事もどうなるかわからない上に発火能力まで…)

ただでさえ先が見えず途方に暮れていたのに、いよいよ暗澹たる思いだった。『もう取り返しがつかない』という冷たい絶望が足元からひたひたとせり上がり、やがて溺れてしまう予感がする。それ以上は何も考えられなかった。

「消防隊に入れ。ここを家と仕事場にすりゃあいい。発火能力も全部まとめて俺が面倒みてやる」

ふいに思いもよらない申し出が頭上から降ってきた。紅ちゃんにしては突拍子もない発言なのでびっくりして見上げるが、その顔は真剣だった。

「私が、火消しに…?」
「いいや。お前がやることは今まで通り薬屋だ。詰所に駆け込んできた連中の手当てをしてもらう。ただし…」

紅ちゃんは少しの間、口を噤み瞬いた。

「…表向き大人しくしちゃあいるが、消防隊となった今も俺達は皇国に平気で歯向かう野蛮な連中だ。所謂やくざ者ってやつだな。一度頷いちまえばお前も世間様にそう見られる─その覚悟が持てるか?」
「覚悟…」

消防隊に入れば住まいも仕事も保障され、発火能力もどうにかなる。これ以上ない好条件だ。

それでも返事を前にしばらくためらった。皇国と浅草の折り合いが悪いことは承知していたし、第七となる前の自警団の頃から慣れ親しんでいるのだが、紅ちゃんの口振りは随分と物騒で私の認識からかけ離れて聞こえた。

(皇国にも第七にも私の知らない面があるのだろうか。勿論、紅ちゃんにも…消防隊に入ればそれがわかるのだろうか)

もう何年のつき合いになるのかすぐには思い出せない。浅草で共に過ごした日々を思い浮かべて静かに考える。

紅ちゃんは相変わらず厳しい表情でこちらを眺めていた。しかしただの荒くれではなく、よく知った青年に見えたので臆することなくすんなりと声が出せた。

「紅ちゃんが─若が、私を望んでくださるのなら。喜んでついて参ります」

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