夜白の燈火

新門紅丸

家業の薬屋を継いだ浅草生まれの幼馴染と、火消しの頭を継いだ新門紅丸の両片思い話。

※火事の描写があります

目次

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朝凪

夜明けと共に立ち込めた靄の中で、腫れぼったい目を擦り、倒壊した自宅の様子を窺った。

住まいは壁も屋根も崩れ落ちて散々なあり様で、火事の最中よりも悲惨だ。消防隊の荒っぽい所業は祖父の御霊を洗い清める為だと理解はしていたが、いざ黒ずんだ瓦礫の山を目の当たりにするとただただ呆然とすることしかできない。

頼りにしていた祖父はもういない。この灰の中からたった一人で立ち上がらなければならないのか。人体発火の不条理を前に、家族と過ごした穏やかな日々が陽炎のように儚く漂い、やがて消え失せようとしていた。

(お祖父ちゃんならきっと、自分のことを後回しにして怪我をした人の治療に取り掛かるだろう。でも私にはできない。足が竦んでこの場から動けないもの…)

絶望に押し負け、思わず両手で顔を抑えた時だった。

ふわりと頭上から被せられるものがあった。それが何なのかを確かめるよりも早く、誰かに手を引かれて歩き出す。

「べ、紅ちゃん?」
「直に弔いの馬鹿騒ぎが始まる。しばらくは詰所にいろ」

顔の前に垂れた紺色の布の隙間から覗いた人物が意外で仰天した。そして手を繋いでいることにもっと驚いたのだが、気がついた時にはまだ人のいない早朝の通りを二人で早足で駆け抜けていた。

(そうだ…ここには紅ちゃんがいる。お祖父ちゃんが遺してくれた繋がりもある。あの家のように全てが崩れてしまった気がしたけれども、いつかきっと元の暮らしに戻ることができる…)

淡く頼りない光の中を行く彼の背中だけが唯一の標に思えた。骨ばった指や大きな手のひらを伝い、力強さがこちらに流れ込んでくるかのように感じられた。慰めの感触に導かれ、その歩調に合わせて前進するうちに少しずつ不安が和らいでいく─

「…住まいを壊したことは、悪かった。お前がなるたけ早く商いを再開できるよう最優先で修理する」
「い、家のことはいいよ。紅ちゃんが荒っぽいのは承知してる」

詰所に着くまでだんまりを突き通すのかと思っていたが、ふいに前を向いたまま紅ちゃんが呟くように謝った。その頃には大分気力が回復していたので、寧ろ紅ちゃんの方が悄然としているように思えてどきりとする。最強の名に相応しく滅多なことで動じない彼に、実は脆い一面があることは薄々感づいていた。

「…あのね、紅ちゃんには壊すしかないのをわかっててお祖父ちゃんのことを頼んだの。炎に巻かれて苦しんでいるのを見ていられなかった。一刻も早く解放してあげたかった。だから、昨夜の件の責任は私に─」
「誰もお前に責任なんて望んじゃいねェよ」
「それでも、お祖父ちゃんのことは貴方一人に負わせたくない。私には何の力もないけれども、紅ちゃんが辛そうなのをただ眺めているのは嫌なの…」

用心深く言葉を選び、励ましのつもりで喋り出したが、却って何を言いたいのかわからなくなってしまった。会話はやがて尻すぼみにたち消え、いつしか二人の足は往来で止まっていた。

「『負わせたくない』ったってなァ、ジジィにとどめ刺したのは他でもない俺だ。…お前は俺が怖くねェのか」

繋いでいない方の腕が伸びてきた。頭から被せられた羽織をかき分け、熱を持った指先が覚悟を試すように輪郭に触れる。

どくりと体の奥深いところで感情が波打った。きかん気の強い暴れん坊がいつどこでこんな所作を覚えたのかと驚いたのもある。成長するにつれ何となく口をきく機会が減り、火消しの頭を継いでからは近寄りがたい存在だと遠巻きにしていた。その間に異性と見なされているとは思いもよらなかったのである。

(…怖い筈がない。だって、私はずっと紅ちゃんのことを好きなんだもの─)

思わず目を上げると、かつてない程に優しい光が私を見下ろしていた。周囲の靄に今にも滲んで溶けてしまいそうな淡く仄かな光だ。芯に秘めたものが破壊するだけの力ならば、こうして温かく、好ましく映る筈がないと思った。

心臓が早鐘を打ち始める。果たしてここが分水嶺なのだろうか。想いを告げるべきか、告げざるべきか─

「─…全然怖くないよ。どんなに暴れて壊そうと、私が昔から知っている紅ちゃんに変わりはないもの」

散々迷って、結局は本心が喉から出かかるのを寸出のところで押し留めた。代わりに熱意と確信を込めた口調でゆっくりと言い切ると、触れ合ったところがはっとしたように僅かに動くのが伝わる。紅ちゃんはそのまま押し黙り、考え込む素振りを見せた。

(危なかった、言ってしまうところだった。お祖父ちゃんを焔ビトとして屠ったことに紅ちゃんも少なからず動揺している…今はお互いに一刻も早く平穏な暮らしに戻ることを優先しないと)

そう考えて平静に見えるよう努めると、意外とすんなりと平気なふりができた。微笑んでみせる余裕すらあった。

共に過ごした日々がある限り、彼が何者であろうと私の中で動きようのないものがある。何より昨夜に抱きしめられた時の温もりと鼓動を覚えていた。それで十分だと思えた。多くを失った今、それ以上を望んで壊してしまう方が忍びなかった。

「…急ぐぞ。一緒にいるところを町の奴らに見られたら面倒だ」

話は唐突に終いになった。紅ちゃんは私の手を引いて再び詰所の方へと歩き出す。

霧はまだ深く濃く、二人を惑わせるように全てを覆い隠していた。

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