夜白の燈火

新門紅丸

家業の薬屋を継いだ浅草生まれの幼馴染と、火消しの頭を継いだ新門紅丸の両片思い話。

※火事の描写があります

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赤橙

家業の薬屋を継いだ浅草生まれの幼馴染と、火消しの頭を継いだ新門紅丸の両片思い話。

浅草の詰所の暖簾をくぐると、建物の奥から「あ!」と小さく声がした。今しがた通りがかった人物が慌てて身を屈め、居ずまいを正して板の間に手をつくところだった。

「若、お帰りなさいませ」

額づいた床に緩く編んだ髪の房が垂れ落ちる。原国式の着物を着込んだ小さな背中には見覚えがあった。詰所に出入りする薬屋の孫娘である。

「ああ…紺炉の抑制剤の補充に寄ったのか」
「はい。毎度贔屓にしてくださりありがとうございます」

俺としては軽い調子で世間話を振ったつもりだが、娘はますます深くこうべを垂れた。その他人行儀な様子が案外頭にきて、気がついた時には頭頂部にデコピンを食らわせていた。ばちんっ!とそこそこ大きな音が響いて「きゃんっ」と仔犬のような声が上がり、やがて驚きに満ちた瞳が見上げてくる。

「その口調と態度をやめろ。むず痒くて仕方ねェ」
「べ、紅ちゃん?でもいくら幼なじみとはいえ大切なお客様だから『分別はつけろ』って、お祖父ちゃんが…」
「ジジィの理屈なんざ知るか。それに分別つったってなァ、怪我の多い火消しとそれを治す薬師は持ちつ持たれずの間柄だ。上も下もねェ。それなのにまるで俺が偉ぶってお高く止まってるみたいで気に食わねェんだよ」
「だって実際、偉いじゃない。浅草中の人が紅ちゃんを慕って尊敬している。昔からよく知った仲だからって私一人が礼儀を欠くわけにはいかないの」
「…そうかよ。お前は俺じゃなくて世間体をとるんだな」

ああ言えばこう言う。埒が明かずヤケになって足を投げ出し、どっかりと上がり框に腰を下ろした。

相手は飛び起きて、履き物を脱ぐ俺に場所を譲ると、立ち去ることもできずに隣で困惑の色を浮かべている。

「駄々をこねないでよ。私だってやっと整理がついたのに…」

それから俯いて決めかねたように視線を彷徨わせる。伏せたまつ毛が桃色の頬に長い影を作っていた。

(また一段と女らしくなった。亡くなったかみさんにそっくりだ)

在りし日の面影を重ねるうちにふと、こうして目線が近くなるのは久しくなかったことに気がついた。背丈はとっくに追い抜いていたし、お互い家業の跡目を継いでからは何かとばたばたしていて、ゆっくり膝を突き合わせる暇もなかった。

世が世なので同い年の子どもの存在は貴重で、小さな頃から祝い事は何でも一緒くたにされて辟易していた。二人まとめての行事はやたら盛大で気恥ずかしくもあった。

しかし成人するのと同時にその機会はぱたりとなくなる。暫く会わないうちに俺を真似て「火消しになる」と言っては親を困らせていたお転婆は、楚々とした所作が板についた瑞々しい娘へと成長を遂げていた。

「…じゃあ、こうして二人の時は堅苦しいのは無しにして今まで通りにする。それでいい?」

ぱっと思い出したように顔が持ち上がり、目の前の表情豊かな瞳が現実へと引き戻す。切り替えの早い軽快な気風は亡くなった親父さん譲りだ。この柔軟な反応を期待し、ついムキになって我を通そうとしてしまう自覚はあった。

「自分で言ったことだ、忘れんなよ」
「うん。あ、お祖父ちゃんには内緒にしてね」

娘は気が晴れた様子でいつもの陽気さを取り戻した。年月が経過するにつれ変わらずにいられるものの方が少ないことはわかっている─しかし何心もなくじゃれ合えるこの間柄がなるたけ長く続くことを望んでいた。

*

寝静まった浅草の町に一つの唸りが轟いた。夜のしじまを揺るがす苦悩の叫びはあまりに不吉で聞いた者を震え上がらせる。やがて家々が目覚めて明かりを灯し「火事だ」と小路に人を呼び集め始めた。

「若、薬屋の御大が焔ビトになっちまった!」

現場に駆けつけた俺に火消しの一人が声をかけた。指した先は町屋の一角で太い火柱が上がっている。そして明々とひらめく中心で低い雄叫びと共に両の手を天へと突き出す人影が映った。

そこにあるのは苦痛か、それとも狂喜か。息巻く炎に煽られた黒炭の影はたたらを踏み、無計画に踊り狂っているかのように見えた。ふいに「お前も一緒にどうだ」と言わんばかりにこちらに向かって首を傾ぎ、にたりと乱杭歯の並ぶ口元を歪める。

(笑ってやがる…)

絶命の際にしては恣意的だ。最早、人間の所業ではない。

「紅ちゃん、お祖父ちゃんが…」
「そこで聞いた。お前は退がってろ」

燃え盛る家屋の前で呆然と立ち尽くしていたのは薬屋の孫娘だった。炎に照らされた顔は煤で黒く汚れ、悲壮に濡れた目の周りばかりが白い。

それ以上はお互いに交わす言葉を持ち合わせておらず、火の粉が降りかかる中で静かに見つめ合った。眼孔からしきりに炎を吹き出す好々爺の変わり果てた姿の前ではどんな慰めも無意味に思えた。

誰よりも近くにいた筈なのに、これから俺はジジィの仇として、娘はジジィの忘れ形見として断崖の両端で向かい合うのだ。隔たりは二度と縮まらないだろう。冷たい予感に足が動かなくなる─

「若。ここは俺が」
「いいや、俺が出る。紺炉はそいつを連れて後方に避難しろ」
「しかしよォ…!」

紺炉が割り込んできたのを機に顔を背けた。弾かれたように走り出すが、すぐに力強い両腕に阻まれる。なおも言い募ろうとするのを制したのは細く澄んだ声だった。

「紺炉さん。紅ちゃんに任せてください」
「お嬢まで…何を言ってるのか、わかってるんですかい?」
「はい。火消しの仕事は見てきましたから─紅ちゃん、お願い。お祖父ちゃんを眠らせてあげて。大好きな紅ちゃんに弔ってもらえたなら、きっと幸せだと思う」

有事の際に自身の感情を二の次にしてしまうのは人を救う薬師の性か。理不尽に耐え、よき孫娘であろうとしているのが痛々しかった。

「─わかった。俺が引導を渡してやる。少し待ってろ」

気がつけば衆前にも関わらず抱き寄せていた。身命は抵抗らしい抵抗もなく、すんなりと腕の中に収まる。

「紅!御大の前でお嬢に何してんだ!」
「あー…悪ぃ。つい、勢いづいちまった」

我に返ったのは紺炉に叱られた時だった。一度は体を離すも、それまでされるがままだった娘の手に衿を握られ、ぐいと引き戻される。再び押し当てられた顔は表情こそ見えないが、胸に伝わる震えで泣いているのがわかった。

「ありがとう、紅ちゃん。お祖父ちゃんをよろしくね…」

涙の懇願はところどころ掠れては途切れる。それなのに火事場の騒ぎの中でも不思議と真っ直ぐ耳に届いた。

*

町屋の前では既に火消しの衆が集結して隊を成していた。俺が娘に抱きついたことはいち早く知れ渡り、驚きと囁きが共有される度に一つのうねりとなって一層浮足立つ。荒々しい興奮に酔いしれた面々は照り輝き、思い思いに歓声を上げ、早くも祭りは最高潮を迎えていた。

(さっきのに期待されるような意味合いはねェんだがなァ…)

熱のこもった視線に耐えかねて頬を掻くが「じゃあどういう了見なんだ」と後方から見守る紺炉にどやされそうなので口にはしない。仮に深堀されたとしても答えようがなかった。

「…隊の士気がいい具合に高まっているからヨシとするか」

いよいよ鬨の声を上げると、隊員の手にあった纏が一斉に宙を躍った。片端から火矢にして放ち、周辺の家屋を巻き込みながら炎は天高く燃え上がる。煙と熱の隙間を抜け、焼け落ちて傾いた屋根をくぐって目当ての町家に辿り着いた。

(つい先日『孫娘の花嫁姿を見るまでは死なねえ』と言っていたじゃねェか。『肉親の縁の薄いあの子をこれからも気にかけてやってくれ』と俺に頭を下げてきただろうが)

目の前の光景は孫娘を労ってばかりだった年寄りの最期には相応しくないと、痛みと共に考える。

せめて華々しく見送ってやろう。拳を握る要領で力の照準を絞る。相手の心臓の辺りを手刀で穿ち、ありったけの熱を注ぎ込んだ。火力に耐えかねた焔ビトは声もなく灰へと帰していく。

「─じゃあな、ジジィ。散々世話になったのにぶっ壊してやることしかできねェけどよ。せめてあいつの行く末は、俺がアンタの代わりに見届けてやる」

黒炭の影は人の形を崩す刹那、俺の呼びかけに応じて頷いた気がしたが定かではなかった。確かめる前に風が吹き、燃え尽きた塵芥は先刻の火柱よりも空高く上っていく。そして星に紛れて見えなくなった。

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