胡蝶之夢
艶やかな唇がゆっくりと弧を描き「しのぶ様」と嬉しそうに私を呼んだ。
それを見てこれは夢なのだと悟った。あの子は私の前では一向に笑わなかったもの─ぼんやりと綺麗な顔を眺める。面差しは生前と変わらず繊細で優美だ。それでいながら笑むと美しさよりも愛らしさの方が際立った。飴玉をせがむ幼子のように、大きな瞳に星を映して私の言葉を待っている。
「…何故にこにこしているの?」
つい問いかけてしまった。はっとして口元を抑える。鬼かもしれないのに、と己の軽率な行いを恥じた。
態度を転じ腰の刀に手をやったが彼は動じなかった。落ち着き払い明瞭な声音で私の問いかけに答える。
「しのぶ様が俺を想って泣き沈んでいるからですよ」
彼が着ていた華やかな衣と長い黒髪は、突如として巻き起こった花吹雪に流され彼方へと消えたように見えた。風が吹き乱す髪を顔から払いのけながら、その正体を明らかにしようと注視する。しかし一度の瞬きの間にあの夜と同じ、精悍な駿馬のような若者が私を見下ろしていた。
「な…」
「俺を想って」なんて、仮にも師範に向かってとんでもない生意気を言う。目の前で姿形が変わったことよりもその言い草に驚いた。だが私が不快感を露わにしようと彼はまるで気にしていない様子だ。しげしげとこちらを検分し、むしろ面白がるような表情をしている。
「…私は泣いていません。その目は節穴ですか」
悠然と目を細め口角を上げてみせた。大丈夫、笑えている。ちゃんと感情を制御できている。みだりにとり乱す未熟な胡蝶しのぶはもう居ないのだ。
(貴方がそうさせたのよ─)
「いいえ、泣いていました。夢の中でくらい素直になったらいかがですか。痩せ我慢はよしてください」
少年はにっこりと、挑発するかのように不敵に微笑んだ。
冷えた指に頬を撫でられたかのように血が下がる。心の柔らかいところを酷く傷つけられたのを認めざるをえなかった。残された人の気も知らず「痩せ我慢はよせ」とはいかに。相変わらず勝手なことばかり言う。
急速に落ちた分、感情が裏返るのもまた早かった。燃え上がった冷たい怒りは相手の眉間を正確に射た。もはや正体が術だろうと妖だろうとどうでもいい。払ってしまえば一緒だ。
長らくこの身に滞っていた毒を吐きつけるつもりで素早く長剣を引き抜いた。しかし相手は飛んできた羽虫を躱すかの如くひらりと避ける。すぐに切っ先を返して討ちにかかるも、またひらり。だが片袖を引き裂かれて初めてその顔から笑みが消えた。
「泣いているのは貴方の刀では?逃げてばかりではなく向かっていらっしゃいな」
少年は見覚えのある刀を腰に携えていた。焚きつけるつもりで袖に仕込んでいた暗器を翻す。針は白い頬を僅かに掠めた。その手が柄頭を彷徨うのを認めてほくそ笑む。
そうだ、刀を抜け。抜いてみろ。虚仮にされ悔しくはないのか。対峙する私に研鑽した一太刀を浴びせてみたいと思わないのか。この憤怒に釣り合うだけの価値が自身にあるのだと刃をもって証明してみろ。今度こそ本当に、消えてしまう前に─両手で構えた剣に全体重を乗せて前進した。
「死人に諍ってどうするのですか」
その瞬間は思わず固く目を閉じてしまったのだが彼は徐ろに口を開いた。尖刃は確かに急所を貫いている。手応えもあった。しかしその声は平静そのもので淡々としていた。
愕然として目を開くと、すぐ前にある彼の上背は記憶にあるよりもずっと高い。肩も胸板も厚く、黒黒とした瞳が静かに私を見下ろしている。底のしれない暗さを垣間見てぞっとした。彼は間違いなくこの世の人ではないのだ。
慌てて飛びすさろうとしたのに突き刺した刀が抜けない。その一瞬の判断の遅れが仇になった。背に手をまわされ軽々と抱き寄せられる。その力があまりにも強いので、彼と自分の体との間に咄嗟に挟んだ腕ごと肺が圧迫され噎せそうになった。頭にきて追撃の機を窺いながら先ほど使ったものとは別の暗器を探るが、ふいに彼は耳元で「その意気です」と、ぽつりと囁いた。
「そうやって生きることを決して諦めようとしない、勝気なしのぶ様のことが俺は好きでした」
(…この感情は駄目だ。決意が鈍る─)
胃のあたりがゆっくりと重たくなっていく。両足が浮くほど強く抱きしめられたことで彼の拍動も体温も既に失われているのをいよいよ悟ってしまった。
(悲しい子。死してなお人のためにしか動けないのね)
そういうところが姉さんに似ている。姉は今際まで私の心配をしていた。貴方もそうなのか。だから彼岸を渡らずにこうして夢枕に立ったのか。
対して私は自分のことばかりだ。私から貴方達を奪った元凶がのうのうと地上で生き長らえているのが許せない。斬り払う力のない自分が許せない。
「…離しなさい。私は鬼殺隊の柱、胡蝶しのぶです。無礼は許しません」
可愛らしい女の子でなくていい。貴方が慕ってくれた私でなくていい。姉さんが遺した影の中で、私は私のできることを成すだけだ。決めたのだ。貴方達が慈しんでくれたこの身をもって鬼を屠ることを─彼の体に突き刺さったままの刀の柄を握り直しながら羽織の袖の中に隠した小さな刃に手を伸ばす。
真意に気がついた彼はやっと私を解放して距離をとり「その意気です」ともう一度言った。何も明かしていないのに訳知り顔で笑っており、それが酷く癪に触った。
*
思い出すのは苛立ちばかりだ。哀愁など欠片もない。彼は私がどんな感情をぶつけようとまるで気にしていなかった。珍獣を観察するかのような表情をしていた。
(最低)
故人を弔うには相応しくない心持ちだが抑えきれない。起床してからずっと私の内側はごうごうと荒れ続けている。仏前に手を合わせながら細く目を開け、くゆる香煙の向こうを睨みつけた。立ち並んだ数々の位牌の中に、彼はいる。
「明け方に兄さんが来たわ」
隣で静かに手を合わせていたカナヲがいきなり口を開いたので驚いた。
いやだ、あの子の正体を知らなかったのは私だけだったの。カナヲはいつ、どうやってそれを。明け方とは、夢で?あの子はカナヲに何を語ったのかしら。
ここで動揺を気取られてはカナヲのみならず屋敷の子達の混乱を呼ぶことになるだろう。邸内の平穏は主人の気概によるところが大きいのだ。しかし、ぐっと飲み込んだ声ならぬ声が容赦なく頭の中を木霊した。息を止めた私をカナヲが不思議そうに見ている。ああ、頭痛がする。こんな事態を招くなんてとんだ悪霊じゃあないか。
カナヲは立ち去りも喋りもせず、じっと傍らに控えていたが線香の煙が消えるのと同時に再び口を開いた。
「兄さんはいつもしのぶ姉さんを見ていた。それはこれからもそうだって。姉さんがどういう選択をしても応援しているって。きっとしのぶ姉さんとはまた喧嘩別れになってしまうから私から伝えて欲しい、と言われたの」
澄んだ瞳に私の顔はどう映ったのだろうか。視線が合ったカナヲは珍しくぎょっとすると気まずそうに目を泳がせ、唐突に駆け出して部屋から出ていってしまった。
*
カナヲに呼ばれたアオイ達が気をきかせて人払いをしてくれたのはありがたかったが、布団を被ってしんしんと泣き濡れる気にはなれなかった。しかし考えを巡らせることにも疲れてしまい回廊に腰掛けて自分の膝に頬杖をつき、ひたすら靴脱石の脇を通る蟻の行列を眺めていた。
太陽が真上に近づくにつれ軒先に落ちる木の葉の影はくっきりと色を濃くし、相反して彼の残り香にも似た気配が薄れていく。それをぼんやりと噛みしめて繰り返し自分に言い聞かせていた。夢は、夢なのだと。
ふと庭を優雅に舞っていた一羽の蝶が私を目掛けて翔んでくるのを見つけて指先に留まらせた。柔らかな翅を休める可憐な様に意図せず笑みがこぼれるが、胸の中のある部分が頑なに動かないのを感じた。既に冷たい石となり、もう二度と花開かないだろう。
「そろそろ行くわ」
声をかけると蝶はふわりと飛び立った。そして「しのぶ様」と懐かしい声に呼ばれた気がしたが、振り返らなかった。午前中を休みにしてしまった分、これから忙しくなる。やるべきことを指折り数えて私を待つ人々の元へと歩き続けた。
Posted on 2023.08.27
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