回顧録─出逢いと立志編
夜毎泣き叫ぶ程、蔵から出たかったのに。久方ぶりに扉をくぐり、すぐに後悔をした。
懐かしい月光の下に塗りたくられたのは夥しい赤色ばかり。肉塊は一目で喰い荒らされたのだとわかる。ああそうだ。そういえば音が、音がしない。寝静まっていようと人と虫や動物とは気配が違うのだと真っ暗な蔵の中で気づいたのだ。衣擦れ、寝言、鼾─生きる人の発する微かな信号を探して歩き回る。しかし、松虫の鳴く声が虚しく響くだけだ。
閉じ込められていたのは幸いだったのか。では、幸いとは何か。爪先に当たったのは光を失った母の頭だった。
「ごめんなさい…私達がもう少し早く来ていれば、助けられたかもしれない」
「せめてこれを。何の慰みにもならないでしょうけれども」
黴臭い母の着物を肩にかけられる。俺が蔵に居たのは折檻の為であったのだが、二人が知る由もなかった。そしてそれを命じた母を恨む気持ちはこれまでも今も一切無い事に気がつく。騒いだのは闇が怖かったからだ。まさか蔵の外にこそ色濃く果てのない暗がりが広がっていようとは、誰が想像出来ただろうか。
「我慢しないで泣いていいのよ、お嬢さん。あちらの屋根の下に行きましょう。肩を貸すから」
「姉さん、あまり情けをかけるのは」
「でも、しのぶ。それではこの子があまりにも」
見目麗しい姉妹は重ねて「身を寄せるあてはあるのか」と尋ねた。すぐに「別邸に父がおります」と答える。既に別の子どもの父親になっていたが、姉の方の幾らか安堵した表情を見ると仔細な事情を説明する気にはならなかった。
よく知っている場所の筈なのに、息吹の絶えた家の敷地はやけに広く感じる。瓦礫を前に母の頸をかき抱いて湧き上がってくるのは涙ではなく無力感だった。父に代わってこの家を守らなければ、おかしくなってしまった母を支えねばと歯を食いしばって耐えていたのに。俺の苦労と志は水泡と化したのだ。
「母様…何故一緒に連れていってくれなかったのですか」
「ふざけないで!」
焼けるような痛みが弾け耳がキンと鳴る。ぶたれた頬を押さえて上体を起こすと、怒りに拳を震わせた少女が仁王立ちをして俺を見下ろしていた。
「何も出来なかったのは弱いからよ!姉さんは貴女が隠れていた蔵を庇って傷を負った!一生痕が残るかもしれない深手よ!それを…よくも。貴女は生きることを選択したのではないわ、生かされたのよ!」
「やめなさい、しのぶ。全て鬼がやったことよ。この子に責はないでしょう」
『しのぶ』と呼ばれた少女は尚も食い下がろうとしたが、穏やかな態度を一変させた姉にぴしりと言われて押し黙った。眼光鋭く俺を睨みつけ踵を返すと「討ち漏れた鬼が居ないか確認する」と言い置いてふわりと姿を消してしまう。
ぽかんと中空を見つめた。頭の中を占めていたのは姉妹の言う『鬼』のことだった。
犬を連れた野盗の仕業と推察していたのだが、それならば真っ先に俺の居た蔵を狙うのではないか。近辺で一番大きな蔵は外から見ても十二分に目立つ。わざわざ使用人が多く住まう母屋を荒らす道理がない。悲鳴の合間に聞こえた咆哮は最初から財ではなく人の方を狙っていたのか─冷静になってみると遺体の傷は犬にしては大きく無惨で、明らかに人智を超えたものと思われた。
衝撃に頭がぐらつくが、残された女性が静かに見守ってくれているのを感じた。そうして嵐が過ぎ去ると、不思議と体の奥底から漲るものがある。
あの少女の言うことは正しい。母に言われるがままに少女の姿を模し、萎れた父の背中を大人しく見送ったのだ。蔵に入る時も抵抗はしなかった。常に周りに従い、生かされてきた。
突き抜けたように冴えた頭は自分がどう動くべきなのか、どうしたいのかをはっきりと理解している。小窓の格子から垣間見た月夜を軽やかに舞い、怪物を斃す二つの影─俺は貴女達のようになりたい。
「鬼殺の道は修行さえ過酷よ。文字通り命懸けなの…生きて失うものも沢山ある。仇討ちなら私達がするわ。だからお父様の元で普通の暮らしを」
「知ってしまった以上、一人で幸せになど到底なれない…家人の無念はこの手で晴らします」
虚ろな目を手のひらで撫でて閉じる。彼岸より俺の選択を見守っていてください、母様。
女性は一瞬だけ泣き出しそうな顔をしたが、すぐに元の凛々しさを取り戻した。袂から小花の描かれた便箋を取り出し、躊躇いなく自分の血で文字をしたためる。
「七日待ちます。それでも決意が揺るがなければ鴉にこの文を託しなさい。逃げ出しても責めないわ…復讐を果たすことばかりが弔いではないもの」
わかるでしょう、と小さな子どもに言い聞かせるように文と手を握られる。可憐な外見にはそぐわず、その手は荒れてごわついていた。
Posted on 2021.03.19
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