錆兎に挨拶できるか、と義勇に促されて小さな口が「こんにちは」とたどたどしく動いた。正確には舌が回らず「ほんちゃ」と聞こえたが、二歳という年齢を考えれば随分と分別がある。さすが毎日背負われて店先に出ているだけあると感心したが、すぐにはにかんで父親の胸に顔を埋めてしまった。俺から逃げるようにしがみつく。
「上の子が教えるんだ。自分が錆兎に言われたのを覚えているのだろう。口調がそっくりで中々笑える」
義勇は愉快そうに言う。当の本人は「お母さんに頼まれたんだろうけど、子どもを二人もみるのは大変でしょ?お昼ご飯まで遊んでくるよ」と生意気な事を言って出掛けてしまったのだが、あれで割と気を遣っていたのかもしれない。
母親の言うとおり「大人しくて手が掛からない子」の印象はあれど、タブレットの知育動画が少しでも止まると急かすようにじっと見つめてくる。きらきらと輝く大きな瞳に「悪い」とこちらに非がある筈も無いのに、つい謝ってしまった。「錆兎、錆兎」といつもの調子でせっつかれていたらとても手が回らなかっただろう。
「兄妹で全然性格が違うんだな。妹の方はやはり義勇に似ていると思う」
「…その点は複雑だ。来年から幼稚園で上手くやっていけるのか不安になる」
夢中になる余り前のめりになってしまうので頻繁に抱え直すのだが、画面から絶対に目を離さない。父親譲りの集中力を称賛したつもりなのに義勇は曖昧な顔をした。商売をしている家の子どもの性格としてはマイナスになるのではと懸念していたのを思い出す。自分が偶に店に立っては外に列を作っているのを忘れているのだろうか。
「愛想を振りまかなくとも今のままで充分」
可愛らしい、と覗き込むと同じタイミングで顔を上げたので視線がかち合った。突然にぱ、と母親にそっくりの満面の笑みを零す。変わりように驚く俺を尻目にくふくふと綿毛が舞うような笑い声をあげながら膝の上からすり抜け、向かいに座る義勇に抱きついた。何が可笑しいのかその背中はなおも揺れ続けている。
「調子が出てきたみたいだ。錆兎に慣れたのだろう…恐らく一筋縄ではいかない。何せお転婆が過ぎて俺達ですら手を焼く」
義勇の言葉を理解しているのかのような完璧なタイミングで、小さな怪獣は笑顔のままゆっくりと俺を振り返った。
***
「義勇さんったら凄い寝癖」
白い電灯の下で笑うのを見て眩しさに目を細めた。ちかちかする視界に瞼を閉じ「熟睡していたんですね」と優しく漉かれるのに身を任せる。遊び疲れた子ども達と錆兎が眠る部屋の戸を後ろ手に閉め、柔らかな現身を抱きとった。慣れ親しんだ甘い匂いを期待していたのに、知らない香りがする。
「…錆兎くんに夕飯も食べて行ってもらいましょう。材料もお酒も沢山買ってきました」
子どもが産まれてから平静を装うのが上手くなった。
「メインは唐揚げにしますね。マカロニサラダとお味噌汁なら子ども達も好きですし、それでも足りなければお店のお惣菜のストックを何品か出しましょう」
献立を口にする度に早足になった鼓動が徐々に落ち着くのがわかる。腕に力を入れると「鮭大根も作りましょうか」と誤魔化しを続けようとする口を噤んだ。耳元でこくりと喉が鳴るのが聞こえる。
「…お義姉さんとのお出掛けはとっても楽しかったです。でも、出先ではずっと義勇さんと子ども達の事を考えていました。一緒に見たり食べたりしたら喜んでくれそうだとか他愛もない内容ばかりですが…お義姉さんも同じだったようで二人とも家族に会いたくなって、早く切り上げてきてしまいました」
その結果があれです、と食材の詰まった買い物袋を指しながら悪戯っぽく笑う。同時に躊躇いがちに腕に置かれていた手が首に回った。強く引き寄せられて二人の心音が重なる。
「今日はありがとうございました。心配ばかりしていましたが、たまには息抜きも良いですね。自分にとって家族はこんなに大切な存在なのだと再確認できました」
本音を言えばまだ離したくはなかった。しかし、寝起きの悪い娘の唸り声が響く。俺の肩の向こうを窺う顔はすっかり母親のものだった。お互い一人の体ではない。
子ども染みた独占欲を悟られないよう潔く腕を解く。すると、戸を開ける動作が途中でぴたりと止まったので、追う視線に未練がましさが滲んでいたのではと焦った。だが、意外にも振り返った頬は赤く、恥じらいを含んだ眼差しは床の上を彷徨う。
「…あの、今度お義姉さん夫婦と交代で出掛けましょう。私と二人で何処に行きたいか義勇さんの方でも考えておいてください」
「…わかった」
俺の返事に小指を差し出し「約束です」と、はにかんだ。対して小指を出しながら己の口元がどうしようもなく緩むのを自覚する。
「楽しみにしている」