鍵を出そうとポケットの中を探り始める。やっとの思いで私の方から繋いだ手は、そうしてドアの前であっさりと解かれてしまった。
「どうした」
促されても部屋に入ろうとしないので不思議そうに尋ねられる。その間も私の視線は冨岡先生の手に注がれていた。
「…何でもないです」
もう少し繋いでいたかった、なんて言えなかった。
***
「正直に言えば良かったのに」
「言えないですよ…お付き合いはしていませんし」
「独り暮らしのお家にお邪魔するだなんて付き合っているのも同然なのでは」
何を今更、とにっこり笑うカナエ先生の言う事は最もに思えたが、頑なに首を振って否定した。
私に余裕ができるまでは、お互い清いままで。浜辺で結ばれた誓いは二ヶ月が経つ今も粛々と守られている。車や部屋で長時間二人きりでも冨岡先生からは指一本触れてこようとしなかった。
「…私、彼に酷な事を強いてますよね」
利用している自覚はあった。一度あの温度で得られる安心感を知ってしまうと堪えるのが難しい。忙しいと尚更だ。彼に癒やしを求めてしまう。
「冨岡は気にしてなさそうだけどな。毎日幸せそうに花を飛ばしてるぜ」
長い指が机の上に並べられたパウンドケーキをひょいと奪う。いつの間に背後に来たのだろう。目を丸くしていると宇髄先生は「俺、忍の末裔なの」と冗談なのか本気なのかわからない事を真顔で曰わった。
「やだ、手は洗ったの?」
「死にゃあしねぇって」
カナエ先生はどこまで絵の具が散らされているのかを確かめるかのように作業着を睨めつける。視線に耐えかねた宇髄先生が大人しくケーキを置くのを見て満足そうに微笑むと「新しいお手拭きを持ってくるわ」と隣の準備室に向かった。
授業用の広い科学室に二人で取り残される。宇髄先生は「やれやれ」と呟きながらカナエ先生の椅子にどっかりと座り、頬杖をついて窓の向こうに目をやった。その手にも顔にも色とりどりの絵の具がべっとりと付いている。一体どんな作品なのだろう。
「向き合う余裕とやらができたのなら冨岡に示してやれよ。あいつの鈍さは相当だからな…言わなきゃわかんねぇんだよ。おねえさんは見るからに晴れ晴れとした顔をしているのにな」
宇髄先生の察しの良さが異常なのでは。それとも芸術という観察観が試される分野に関わる人には当然のように備わっている能力なのだろうか。
答えずに紅茶を淹れるが、次第に頬の辺りが紅潮するのがわかった。宇髄先生の言うとおりだ。冨岡先生のお弁当作りも仕事のペースも落ちるどころか、普段の食事の作り置きの作業まで追加してしまった。それなのに自分のお店をもつ為の勉強は悩んでいたのが嘘のように順調に進んでいる。
冨岡先生の事が好き─その気持ちを認めるだけでこんなに違うなんて。一人で頑張っていた時の何倍も力が湧いてくる。あの雨の夜を越えて世界が丸ごと変わった気がしていた。
「おぼこいねぇ」
「おぼ…?」
「純愛って言って」
準備室の戸をぴしゃりと閉めながら、その音に勝る鋭いカナエ先生の声が飛んできた。「変わんねぇだろう」「デリカシーの度合いが違うわ」と言い合う二人を他所に窓の外に視線を移した。
(言わなきゃわからない、か…)
晴れ渡った空の向こうに、冨岡先生のホイッスルの音が響いた気がした。
***
「冨岡先生に見て頂きたいものがあります」
平日分の作り置きの作業が終わり、夕飯の後片付けも済ませたところで切り出す。ぐずぐずとタイミングをはかっていたらあっという間に帰る時間になってしまい、焦りは声に出た。
冨岡先生は湯呑を手にしたまま何事かと驚いている。少しくたびれたノート。付箋だらけの本。スケジュール帳。机の上に広げた私物の数々を興味深そうに眺め、最後に私の顔を見た。探るような視線にどきまぎしてしまう。
「あの、この通り頑張っているので…頑張れています。お陰様で。なのでその、少しだけくっついても…いいですか」
「………………それは、どこまで」
どこまで、とは。予想もしていない返答だったので首を傾げてしまった。冨岡先生は少し考えるように部屋の上の方を見ると「好きにするといい」と隣にずれて場所を空けてくれる。
─何だろう、この空気は。妙な緊張感が漂う。安心する目論見だった筈なのにどきどきしてきた。言い出した手前、引く訳にもいかない。
隣に座り直し「えい!」と勢いに任せてその手をとるが、走り出した拍動は少しも治まる気配がなかった。二人の指が互い違いになる握り方をしたので、歩きながらの時よりも触れる所が多い事に気づく。
腕の内側の温度。指の関節の太さと固さ。さらりと乾いて私よりもずっと熱い手のひら。一つ一つをくっきりと知覚してしまう。握り返され指先がすり、と手の甲を撫でたところで限界を感じた。とても心臓が保ちそうにない。
「…ありがとうございます。充分です」
素早く体を離し部屋の隅に設置された冷蔵庫に駆け寄った。扉を開けて顔を隠す。肌を撫でる冷気がいつもよりも冷たく感じた。
(何だか…ものすごく大胆な事を仕掛けてしまった気がする)
自分の行動は彼にはどう映ったのだろうか。答えを探して前を向いても、ぎっしりと中身が詰まった保存容器があるだけだ。庫内の温度が上がった旨を知らせる電子音が鳴るのを聞いて我に返り、慌てて扉の向こうに呼びかけた。
「アイスコーヒーにしますか。それともお茶を」
淹れ直しましょうか。問いかけた先に冨岡先生の姿はなかった。私のすぐ後ろでしゃがんで、いつの間にか一緒に冷蔵庫を覗き込んでいる。ぱちん!と視線がぶつかる音が聞こえたかと思うくらい顔が近い。反射的に仰け反って距離をとろうとしたが、それよりも早く彼のまつ毛が伏せられたのが見えた。一気に視界が暗くなる。
─初めてのキスは二秒で終わった。味も音も匂いもなくて、唇が僅かに触れ合っただけだった。
「…帰したくない」
気がつくと目の前に秀麗な双眸があり、底の知れない色が迷いのない様子で私に真っ直ぐに据えられている。目の当たりにして「あ、う」と間抜けな返事しかできない。
あの夜と同じだ。逃れたいような、この先を見てみたいような─飛んで火にいる夏の虫。枷を緩めたのは私だ。眠れる獅子を、起こしてしまったのだ。
「ま、待ってくださ」
「…誘ったのは貴女だ」
抱きすくめられて息が止まるかと思った。まわされた腕も目の前の胸板も大きくてびくともしない。それでも押し返さずにはいられなかった。冨岡先生の事が好きなのに、少し─ほんの少しだけ恐い。
ちゅ、と濡れた音をたてて耳やこめかみに優しく唇を落とされる度に体の奥にどろりと熱いものが溜まっていく。ぼとぼとと中心の空洞に落ちて膨らむそれは水飴のような粘性で重く、次第に私の抵抗と思考を鈍くさせた。
(だめ、こんな流されるみたいな…約束したのに)
背中に当たる冷蔵庫の扉の感触にぐずぐずになった理性が覚醒した。その瞬間に首筋を吐息がくすぐり、決心とは裏腹に唇の隙間から「んっ、」と甘ったるい声が漏れる。
空っぽの私の中を冨岡先生で満たせたらどんなに心地良いだろう─誘惑に負けそうになる。でもそれではいつまで経っても私は『給食室の職員』のままだ。
「冨岡先生、本当に待って…」
もう一度胸を押すと、やわやわと鎖骨を食んでいた動きがぴたりと止まった。触れた肩が小刻みに震え始める。まさか、そんな。
「からかっていらっしゃいますね?」
「………いや」
声には微かな笑いが含まれていた。なんて趣味の悪い。頭にきて腕を突っぱねた。今度はあっさりと拘束が解かれる。「すまない」「反応が可愛らしくて、つい」と追いかけられるが、とても耳を貸す気にはなれない。
「もう許可なく触れる事はしない。こちらを向いてほしい」
狭いワンルームの中を逃げ回った挙げ句、壁を向いて正座をしていると、寂しさを滲ませた囁きが吹き込まれた。いかにも弱々しいそれはちくちくと良心を苛む。
(…ずるい………でも)
今何事もないのは彼が譲歩してくれているからだ。力の差を思えば大切にされているのは明白だった。
ちら、と様子を伺うつもりで振り返るとすぐ傍で視線がかち合う。みるみるうちに表情が柔らかくなった。
(!─…笑った)
花弁の薄い花が咲きほころんだような笑み。繊細で美しく、儚ささえ感じた。あまりに明媚なものを目の当たりにすると人は言葉を失うことを身をもって知る。鼓動は瞬時に激しくなり息があがった。
「…どうした」
その顔が気遣わしげに曇る。「何でもないです」と慌てて逸らした。その涼やかな吐息が通う唇に自ら唇を重ねる情景が浮かんだ、なんて言えなかった。