薄く目を開けると、ゆらゆらと景色がふりこのように左右に揺れている。長い黒髪が頬と鼻先をくすぐりくしゃみが出た。自分の発した音に、はっとして体を起こす。そうして初めて、しがみついていたのは半分柄の違う羽織に包まれた背中である事に気がついた。
「義勇さん」
努めて慎重に声をかけた。辺りは藍を通り越して漆黒に近く既に夜が深い事を窺わせ、傍らの家々も寝静まっていたのもあるが、何より彼が私の醜態に呆れ果て怒っているかもしれないと思ったからだ。
「…起きたか」
自分で歩けるか。続いた問いに頷くと、歩みを止めゆっくりと屈んでくれた。腰に下げた刀の鞘の先が地面を削り、がりりと音を立てた。そうぞんざいに扱っては刀鍛冶にどやされる。刀の事になると人が変わる彼らの剣幕が脳裏を過り首をすくめたが、散々面倒をかけた後となっては指摘できる立場にはないように思えた。黙って揃えてくれた履物に足を乗せる。
「付き合いが良いのは結構だが、酒はなるべく断った方がよさそうだ」
「…はい」
「たまたま俺が同席していたから良かったものの酔わせて悪事を働こうと企てる輩もいる。…顔見知りといえど油断は禁物だと、俺は思う」
「…はい」
返す言葉もない。項垂れると溜息が頭上から降ってきた。どんなお小言よりもそれが一番こたえる。出会った時からそうだった。小さくなっていると、俯いた顔の前に手が差し出された。
「─…家に帰ろう。随分と遅くなってしまった」
恐る恐る重ねた指先に感じるのはかさつきで、帰ったら軟膏を出してあげなければと頭の隅に書き留める。すぐに私の手の温度に馴染んでお互いの境目がなくなった。
釣り合っているだろうか、恋人同士に見えるだろうか─辺りに人の気配もないのに浮わついた頭の中はそればかりだ。折角の休息の機会なのに、鬼を招く性質である私の我が儘に付き合うが為の鬼殺の装いだったので、刀も隊服も暗がりに紛れてわからなくなっている事が大層嬉しかった。
(このまま家に着かなければいいのに)
二人でなら永遠に歩いていられる気がした。叶う筈もないのにそう願わずにはいられなかった。
「…義勇さん、好きです。多分初めてお会いした時から、ずっと」
「何だ急に」
まだ酒が残っているのか。一瞬だけ私の顔を確かめると、ぷいと前を向いてしまう。手を引き先を行く表情は見えないが、心無しか耳の先が色づいているような気がした。
可愛らしい。そんな感想が口をついて出てしまいそうになる。成人した男性に「可愛い」だなんて、ましてや義勇さんは余計に嫌がりそうだ。
「………俺の方は、徐々にだった。大した返事もできないのに貴女が飽きも見放しもせず話しかけてくれるから、段々と二人で居る事が当たり前になり…すっかり感化されてしまった」
ありがとう。
思いもしない内容な上に、終わりにそう聞こえた事に驚いて歩みが乱れる。記憶にある限り彼との時間で不快な思いをした事は一度もなかった。いつだって真摯に受け答えをしてくれて、叱る時すら労りに溢れていた。
─今なら言える。確かに気持ちが繋がった感覚がある今なら、本心を言っても許される気がした。酒の勢いもあって気持ちが逸る。両手で節のはっきりとしたその手を握りしめ口を開いた。
「義勇さん、あの」
「貴女が生きる明日を思えば、俺は闘える」
二人で生きる、ではないのだ。弾んだ声に被せられた続きに足が止まる。辺りの闇が一瞬で深く濃くなったように見えた。
脱力した指が解けてするりと彼の手が落ちる。私がその場に取り残されても義勇さんは歩き続けた。そして少し離れた所で振り返る。これ以上踏み込むのか、それとも退くのか。選択は委ねられたのだ。私の心持ち次第でこれからの形が変わる予感がした。
(…ずるい)
なんてむごたらしい。こちらの思いは決まっている。死地へ向かう背中を喜んで押す者がいるだろうか。地団駄を踏んで叫び出したかった。…でも、それでも─それが貴方の選んだ道なのならば─
「…帰ったらお茶を淹れますね。酔い覚ましに良いと聞きますし」
この大きな流れを塞き止める術は私にはない。そう思ったが、口にする勇気もなかった。
急いで駆け寄りその手をとる。繋がれたまま彼が再び家の方へと進み始めた事にほっとした。
これで良かったのだ。選択は間違っていない。
思いながらも胸の内が張り裂けそうに痛む。堪えきれず俯くと、密かに浮かんだ涙が瞬きとともにぱっと散り、やがて暗がりに消えていった。