明け方に雨が止むのと入れ替わるように熱が出た。職場が替わった疲れが出たのだろうと母と上司は気遣ってくれたが、夢に出てきたお化けに負けたようで悔しい。
「何か食べたいものはある?」
数字の浮かんだ体温計を険しい顔で睨みつけていたからだろう、母に優しい声で尋ねられた。実家暮らしとはいえ自分の事は自分でしていたので世話を焼かれるのは久しぶりだ。甘えのままに好きなアイスの銘柄と味まで細かに指定しても、母は「はいはい」と笑って許してくれた。
布団に入り直してから通知に気がつく。
『承知した。無理はしないように』
画面上に二行分の小さな吹き出しが浮かんでいた。
(…一体何を期待していたのだろう)
思わずついた溜息は冨岡先生にではなく、がっかりしている自分に対してだ。「体調を崩した」「今日のお弁当を届けられない」と私のメッセージも業務連絡のようで素っ気ないのに。いつも貰うお弁当の感想が随分と丁寧で精緻なので、無意識のうちに当てにしていたようだ。
(所詮私は体のいい家政婦─ううん、お弁当屋さん、か…)
胸が錐で刺したように痛んだ。パジャマの袖でごしごしと顔を拭い、瞼の裏で波立った気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返す。
後ろ向きな思考はきっと具合が悪いせいだ。早く元気にならなければ。眠ろうとするのだが、焦れば焦るほどもやもやは広がり、長い間寝返りをうつばかりとなった。
*
何とか寝入り再び目を覚ました時には、日はすっかり傾き夕飯の支度を始める時間になっていた。浅い夢を繰り返した事で意識は霞がかったようにぼんやりとしていたが、気分は良い。
汗を流し着替えを終えた頃に玄関の方でことりと音がした。父が帰宅したのだろうか。碌に確かめずにドアを開けて仰天した。
「とっ…?」
冨岡先生、と大きな声を出しそうになるのを慌てて口を抑えて堪える。顔を照らされ眩しそうに目を細め、インターホンに手を伸ばした姿勢で彼はドアのすぐ外に立っていた。
「見舞いに来た。一応連絡は入れたが」
確認していないか。最後は独り言のように呟くと、驚きに固まる私をよそに冨岡先生はマイペースに袋を差し出してくる。
反射的に足を踏み出したが、まるで現実感がなかった。まだ夢を見ているのか、妄想か幻想か─足元はタイル地の筈なのに綿のようにふわふわとしていかにも心ともなく感じられた。
膝から力が抜けよろめいたのを素早く受け止められる。馴染みのない清涼な香りが鼻先をくすぐり、はっとして目を開けると冨岡先生の腕の中にいた。
「…まだ熱い」
その声はすぐ耳元で聞こえ、あまりの近さに顔がみるみる火照る。謝罪をしながら下がろうとしたが、いくら腕を突っ張ってもぴくりとも動かなかった。
冨岡先生の力が強いのか私がすっかり弱ってしまっているのか判然としない。混乱しながらもそのまま身を預けるしかなく、夜気にさらされひんやりとした彼の上着が頬や額に押しつけられる。そのくせ首から下の体温は低く、私を支える大きな手の形と温度がくっきりとわかった。
(どうしよう…心臓の音、伝わっちゃう…)
自分の人生にこんなドラマみたいな展開があるなんて。相変わらずまるで現実感がなかった。自慢じゃないが、これまで仕事に勉学に取り組むばかりで交際どころか真剣に好きになった相手も居ない。
速くなる鼓動とともに血が巡り細胞のひとつひとつがカッカと沸騰し膨らむ気がした。頭は煮立った鍋の中のように熱気がこもり朦朧として、動けない筈なのに視界が回る。
「冨岡先生」
呼びかけは掠れて殆ど音を伴っていなかった。弱々しく空気を震わせるばかりで限界が近い事を悟る。
「すみません、倒れそうで─」
言うが早いがたちまち体が重くなった。腕を掴まれ肩の関節が痛んだが、構っていられない程に眠気を感じる。視界が隅から徐々に狭まっていく中で見上げたその顔は穏やかに美しく、そして憂いを帯びていた。
(やっぱり夢の中のあの人に似ている…)
触れれば確信を得られる予感がした。掴まれていない方の手を伸ばす。届いたかどうかは定かではなかった。