ひたひた、ざあざあ。道路や草木を叩く水音に意識がゆらりと浮上する。
天気予報の通りに降ってきたのかと思考ははっきりと巡るのに、瞼は糊で貼り合わせたかのように動かない。焦りと生温く重苦しい空気に、じっとりと首筋が湿るのがわかった。
日が落ちてしまえばまだ涼しいなどと油断せずにクーラーを点けて寝るべきだった。一度この状態に陥ってしまえば、金縛りは容易に解かれない。朝まで熟睡するしかそれを避ける術は無いのに。後悔したが、もう遅い。既に捕まってしまったのだ。
*
突如視界が明るくなり体が床の上に乱暴に投げ出された。障子戸に背中がぶつかり、がしゃんと音を立てる。
高いとも低いとも表し難い猛々しい咆哮が狭い空間にわんと響いた。雄叫びを上げるどす黒い靄は部屋の天井に届く程に背が大きく、人ならざる者である事を示すかのように瞳孔が猫のように縦に鋭かった。
反射的に耳を塞ぎたくなったが、大きな影から撒き散らされた害意は真っ直ぐに私に向けられており、その恐慌に指先すら動かせない。怪物は苦しんでいるのだ。躍り出た影に傷を負わされ回復の贄として私を強く欲している。
金縛りの原因はこれだった。この世ならざる怪異の前に、私の尊厳はおろか存在すらちっぽけで無意味なのだと思い知らされる。自分は微動だにできないまま無残に蹂躙される側にある─何度対峙しても無力感が薄れる事は無かった。
「走れるか」
乱れ落ちた髪の間から見た人影は、場にそぐわず落ち着いた声で私に尋ねた。振り向くその瞳は憐憫を映し、そして毎度思うのだ。
(貴方の方が、私よりもずっと痛そうな顔をしている─)
*
胸の中が狭くなったような息苦しさを覚えるのと同時に夢はここで終わるのが常だった。
幕引きは呆気なく、電源を引っこ抜かれたかのように唐突に暗い部屋のベッドの上に放り出される。やっとの思いで飛び起きると水をかぶったように全身が汗でびっしょりと濡れていた。
(…まだあの夢が怖いだなんて…どうかしている)
子どもじゃあるまいし、と首を振って顔を覆った。全速力で走った直後のように心臓が激しく打っている。
昔はこの夢に驚いて度々夜中に大声で泣きわめき両親を心配させた。しかし同じ場面を繰り返されれば、結末のわかっているホラー映画のように鮮烈な恐怖もある種の退屈さを伴う。細部の曖昧さもそれを助けていた。お陰で「もうあの夢は見ない」とそらとぼけていられたのに。
顔のはっきりしないあの人は、必ず私の前に躍り出て怪物を直視しないよう庇ってくれた。たなびく黒髪は男性にしては長く─そう、男性なのだ。低くよく通る声、暗く澄んだ眼差し─ごく最近誰かに同じ印象を抱いた覚えがある。
(─冨岡先生に似ているかもしれない)
ちらと一瞬脳裏を掠めただけなのに、思考は急速に像を結んだ。だまし絵と一緒だ。一度認識してしまうと、もうそれにしか見えなくなる。
(よりによって同僚を連想してしまうなんて…)
かあ、と顔が熱くなる。費用は全て負担してもらっているとはいえ、毎日お弁当を作るなんて荒唐無稽な宇髄先生の提案に一ヶ月も付き合い続けられているのは、少なからず冨岡先生に惹きつけられるものがあるからだ。影のある横顔が浮かぶ。
そしてその想いは、幼い頃から繰り返し見たあの夢が少なからず影響している事に気づいてしまった。