俺の家は普通の家とは少し違う。一階がお母さんがやっているお弁当屋さんで、二階に家族みんなで住んでいる。
小石を蹴飛ばして、塀の前を通ると必ず吠えてくる犬のいる家を避けて、坂を登って夕焼けで赤くなる町を見下ろして。そうやってたっぷり寄り道をしても、通う学校から三十分もかからない場所に家はある。周りは普通の一軒家やアパートばっかりだ。初めて来るお客さんは「こんな所にお店があるのね」と必ず言う。
「ただいま」
『冨岡』と表札のついた木の玄関戸ではなくて、内側に暖簾がぶら下がっているガラス戸の方を開けた。表札の下には三つ名前が並んでいる。お父さんの名前である『義勇』が一番大きく書かれていて、その左に細い文字でお母さんの名前と、俺の名前。
「おかえりなさい」
お母さんは鍋の蓋と菜箸を手に持ったまま笑顔で言った。お店の中は甘じょっぱい匂いでいっぱいだ。カウンターの上は今日も売り切れの札が並んでいる。朝には沢山あったお弁当の箱はひとつもなかった。
準備をしている時に厨房に入らない約束だ。コンロのすぐ前にあるお客さん用の席にランドセルを置いて、椅子をよじ登ってカウンター越しに中を覗く。
「今日のメインは何かわかる?」
「…肉じゃがでしょ」
「当たり!しかも牛肉を使ったの」
料理をするお母さんはいつもとても楽しそうだ。ずうっとにこにこしている。大きな鍋と小さな鍋が何個並んでいても、それぞれどれくらい煮たり焼いたりしているのかちゃんとわかるんだって。色々な種類を一度に作るのが得意なので、冷蔵庫の中は常におかずでいっぱいだ。「冨岡の家のご飯は豪華でいいな」ってクラスメイトに言われると嬉しかった。
夕飯と翌日分の仕込みが終わるまでここでやる宿題は、明日は学校が休みだから後回し。鍋の蓋を戻すのを見計らって声をかけた。
「お母さん、明日錆兎が来るか知ってる?」
「錆兎お兄さん、でしょう」
呼び方に気をつけなさい、と腰に手を当てて少し怖い顔をされた。
ふと周りの景色が揺らぎ─お母さんのエプロンが淡い水色の着物になった。明るい電灯に照らされている筈のお店は蝋燭の火に照らされた薄暗い木の小屋になる。
ねえ、お母さん。前世って信じる?
俺達は実は大正時代の人間で、錆兎は狭霧山で毎日のように剣の稽古をつけてくれた友達なんだ。お父さんは今と同じ『義勇』だったんだけど、物心がついた時にはもう居なくて、鱗瀧さんっていう天狗のお面をつけたお爺さんとお母さんが俺を育ててくれた。
小さい頃は夜に見る不思議な夢だと思っていたそれは、やがてこうして昼間にも顔を出すようになる。
自分の中にもう一つ人生があるって、怖い。お母さんが全然覚えていなくて良かったって心の底から思うよ。過去の俺は皆が居たからそんなに寂しくなかったけれど、お母さんは時々とても辛そうだったから。
錆兎に会いたくなるのはこういう時だ。錆兎だけが俺が『記憶持ち』である事を知っている。奥さんと子どもを放り出したあの『義勇』と今のお父さんは違うといくら自分に言い聞かせても、過去と現在がごっちゃになってしまう時がある。もやもやを吐き出して早く楽になりたかった。
「…お父さんに聞いてみようか。今日は遅くならないって言っていたし」
「いいよ。約束してないもん」
つっけんどんに返事をした俺を見るお母さんの眉毛が悲しそうな八の字になっていた。お父さんが居ない事をからかわれて、喧嘩をして帰った俺を迎えたあの頃と同じ表情だ。今の俺の目には髪を古風に結い着物姿で映っているので尚更そう見えた。
「俺にもよくわからないが、奪われた人生のやり直しの最中なんだと思っている。今度こそまともに生き直せと、神様が与えてくれたチャンスなんだ」
錆兎は今の俺達の状況をそう言っていた。詳しくは教えてくれないんだけれど、前世では何か大変な事があってお父さんとお母さんは別れたらしい。
(─…やり直しなら、お母さんは何故また『義勇』を選んだんだろう)
俺のわかる範囲では見た目だけでなく性格や考え方に大きな違いはない気がしていた。記憶はないけれどお母さんは変わらずお母さんだし、錆兎も錆兎のままだ。
生きる時間と場所が丸ごと移っている。という事はお父さんが俺達を置いて消えた酷い奴なんだって事にも変わりはないんじゃ。なのにお母さんは再び引き寄せられるように『義勇』を好きになって、結婚までしている。
大正で生き別れた両親がどうやって現世で巡り合い、再び結ばれる事になったのか。俺は全く聞かされていなかった。
***
***
廊下の窓から見える校庭の桜に見惚れていたのでいきなり強く肩を掴まれて驚いた。振り返るとつい今しがたすれ違った男性が立っている。
大きく開かれた瞳は歩みを止められた私よりもずっと戸惑いの色が濃いようだ。まるで幽霊を見たかのよう─頭の中を過った言葉は言い得て妙に思えた。
「あの…何か」
問うた私を見つめる男性の表情は時間とともにゆっくりと変化した。始めはただ驚いていたのが徐々に深い失望に変わっていく─最終的には顔を背けられた。私の肩を掴んだ手から力が抜け、ぱたりとその体の横に落ちる。
どこかで会った事があるのだろうか。視線がそらされているのを幸いとし、秀麗な横顔をまじまじと見つめてしまう。長く伸ばした後ろ髪を一つに括っているのが印象的だった。保護者も生徒も下校してしまったこの時間にスーツ姿ということは、今日行われた入学式に参列した教職員なのだろう。
どうしよう、いくら記憶を探っても覚えがない。男性も俯いたまま何も言わないので余計に困ってしまう。
「すみません、私そろそろ行かなければならなくて」
つい前職の癖で名刺を探してしまった。すぐに気がついて首からぶら下げたICカード型の職員証を掲げてみせる。真新しいそれの『中等部 給食室』と印字された箇所を指し示した。先月から配属された私の新しい職場だ。
「朝から夕方くらいまでは此処におりますので、お時間があったら遊びに来てください」
面談の時間が迫っていたので返事は待たずに「失礼します」と頭を下げた。踵を返し早足で指定された部屋に向かう。
廊下の角を曲がる折に顔を向けると男性はまだ同じ場所に佇んでいた。その眼差しは暗く、何かを訴えるかのように私を追っている。寂しそうな人だ─置いてきぼりにされた迷子のように見えた。
声をかけたくなったが、追い立てるようにチャイムの音が校内に響く。平日の設定のままなのだろう、時計を見ると約束の時間の丁度五分前だった。
もう一度会釈をし、曲がった先に人目がない事をよしとして小走りに駆け出す。勤める大人全員が規範であるべきとされる職場だが、全く生徒の姿がないので今日くらいは許されるだろう。
軽く息を切らして部屋の前に着いた頃には面談への緊張が高まり、先程の妙な出会いの事は綺麗に忘れてしまっていた。